古事記:編纂者太安麻呂の人物像と高天原成立の真相

見附市学びの駅ふぁみりあでシリーズ開催されている「古代日本史講座」。今年も1月18日から5回シリーズで始まった。

古事記、日本書紀、続日本紀、懐風藻、萬葉集という奈良時代を代表する5つの文献をたどりながら、従来の通説にない隠された謎にせまっていく。

今回のシリーズは、毎回内容をブログ上に記録していくことを目標に参加している。

まず、今回は第1回「古事記:編纂者太安麻呂の人物像と高天原成立の真相」。

■古事記を観る視点

  • 古事記が世に出たのは712年。一般的には710年に平城京遷都が行われたと言われているが、続日本紀の記述によると710年に遷都を始めたと書いてある。さらに平城京の大極殿の発掘により大極殿が完成したのはもっと後年になってからということが判明している。したがって、古事記が編纂されたのは平城京に移る前の藤原京だったのかもしれない。
  • 古事記の原本は現存していない。その内容は何種類かの写本によって伝わっている。現在では江戸時代の本居宣長が記した「新刻古事記(訂正古訓古事記)」がもっぱら引用されているが、これは本居宣長の解釈がダイレクトに表出されたものになっている。
  • 現存する一番古い写本は1371年に写本されたとされる「真福寺本古事記」である。古事記の本来の姿が最も残っているものと思われ、本講座ではこれを「原典」として解析を進めていく。

※訂正古訓古事記を読んで、その解釈内容が意に添わず、先生は本居宣長に悪い印象を持っていた。しかし松坂にある本居宣長記念館を見学して、その仕事ぶりを知り、人間としての本居宣長を高く評価するようになったということだ。

【資料】古事記を観る視点

※現代では「口語訳古事記」(三浦祐之)が広く読まれている。しかし、これも首をかしげるような解釈が随所に見られ、先生は高くかっていないということ。

■古事記の編纂者、太安麻呂

  • 太安麻呂(おおのやすまろ)は実在の人物ではないとの説があったが、奈良の畑から墓が発掘され、太安麻呂の墓誌が発見され、その説は消えていった。
  • 安麻呂の「安」は古代では「仕える」という意味があり、「麻呂に仕える」という意味の名前と解釈できる。「麻呂」とは編纂当時左大臣だった石上麻呂(いそのかみまろ)のことを指すと思われる事実が文献を検索することにより見えてくる。
  • 当時の歴史を表した続日本紀を「太安麻呂」で検索すると初めて登場するのが704年正月であり、石上麻呂が右大臣についたのをはじめ、長屋王など、石上政権の重要な人事が行われたときで、そこに太安麻呂が初めて記録に登場する。内容は正六位下から從五位下に階位が昇進し、貴族の仲間入りを果たしたということ。これだけ見てもトップの石上麻呂とのつながりを感じる。
  • ちなみに、「安麻呂」で続日本紀を検索すると全部で71回登場するが、700年から740年に60回ほど集中し、あとはぱらぱらなのが分かる。石上麻呂政権の時代に「麻呂」に仕えるという「安麻呂」名の官僚が多く活躍したというのは決して偶然ではない。
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  • 官僚だけでなく当時の美濃地方の戸籍にも「安麻呂」はたくさん登場していることから、庶民の間でも「麻呂に仕える」ブームがあったと思われる。

【資料】太安万侶が、石動神社を創建!

  • 日本海側に非常に多く存在する石動(いするぎ)神社。能登にある石動山の古縁起には、養老元年3月3日に「太朝大師」が石動山に登ったと記されている。養老元年3月3日とは石上麻呂が亡くなった日であり、「太朝」とは太朝臣と解釈できる。つまり太安万侶が石動神社を創建したのではないか。
  • これらの人名や神社名、日付などは単なる偶然の一致とは考えずらい。

■「高天原」とは

  • 古事記の冒頭に次の記述がある

    地初發之時於高原成神名之御中主神」

    これには「天」という字が3回出てきている。さらにこれに続いて次のような注意書きが記されている。

    【訓高下天云阿麻下效此】

    口語的に言うと「高」の下の「天」は「阿麻」と発音する、ということだ。「阿麻」とはアマなので「高天原」はタカアマハラと読めということ。
    しかり、現代ではタカマガハラとかタマノハラと読んでいる。これは本居宣長がそういう読みをつけたからだけど、原文の注記を無視していることになる。
    ※この割注について題材にして、『古事記を「読む」』という記事を書いた。

  • 「高天原」の本当の意味は字そのものから見えてくる。
    まず「天」は中臣(ナカトミ)を表すと歌の世界では解釈されている。中臣とは藤原不比等を指す。不比等の父は大化の改新で有名な中臣鎌足。この時代政権のNo.2にいた不比等が中臣を代表する存在だったはずだ。
    次に「天」を除いた「高原」だが、古事記、日本書紀、萬葉集などには登場せず、唯一続日本紀に790年の出来事として「大連(おおむらじ)韓國」という姓を「高原」に改めるという出来事として登場している。「韓國」は日本書紀、続日本紀に数多く登場するが、石上麻呂の若い頃にちなんだ姓と考えられる。また関東の下野には「高原」という地名があり、物部の大連を祖とする一族がいた。左大臣石上麻呂も大連の子孫であることから「高原=石上麻呂」と示唆できる。
  • つまり「高天原」という言葉は石上麻呂と藤原不比等のツートップ政権を意味していると解釈する。
  • また、日本書紀第三十巻に

    高天原廣野姫天皇【持統天皇】

    という記述がある。持統天皇の戒名が「高天原廣野姫天皇」であるという記述。
    持統天皇というと麻呂&不比等時代の天皇。これもこの説を裏付ける。

【資料】根本的な誤読から生まれた様々な高天原諸説。

  • 「高天の原の謎」(安本美典著)では「高天原」に関する様々な論説を紹介している。様々な論説を通読し、それらの誤謬を知るためには最適な書籍。
  • 大きく分けて地上説、天上説、作為説の3つ。地上説には国内説と国外説さらに分かれる。
  • しかし、「高天原」が最初に記された古事記、日本書紀に関する記述がほとんどなく本末転倒な研究書とも言える。

■感想

 太安麻呂という人物、および高天原という言葉の意味を通して古事記を眺めたひと時だった。私は中でも石動神社創建に関する考察に興味がわいた。偶然とは思われない人名や日付の一致は本当に石上麻呂と太安麻呂にまつわるのだろうか。

コメント

  1. omachi より:

    WEB小説「北円堂の秘密」を知ってますか。
    グーグルやスマホでヒットし、小一時間で読めます。
    北円堂は古都奈良・興福寺の八角円堂です。
    重複、既読ならご免なさい。

  2. ブライアン より:

    昨夏、コメントをいただき、読ませていただきました。不比等と興福寺についての労作ですね。