『日本書紀』成立期の時代背景

見附市学びの駅ふぁみりあでシリーズ開催されている「古代日本史講座」。
4月から新しいシリーズが始まった。

『日本書紀』成立1300年!その謎を解く

日本初の国史『日本書紀』が編纂されたのは、養老四年、西暦だと720年。ということは、2年後にあたる2020年は、東京オリンピックばかりではなく、日本書紀成立1300年という節目の年でもある。
この講座としても、先取りして、今年まず10回に渡って『日本書紀』を取り上げる。

今回はその第1回「『日本書紀』成立期の時代背景」と題して、日本書紀が成立した720年前後の政治・経済・文化など、その時代背景を俯瞰する。

時期的には、関根先生の中心テーマである「石上麻呂政権」が確立され、そして麻呂と不比等の没後はしだいに崩壊していく、そんな時期にあたる。したがって、今まで講座で取り上げられたテーマの総まとめ的な内容となった。

■『日本書紀』について

今から1300年前の720年に完成したとされている歴史書。その8年前の712年に古事記ができている。同じ時期に完成したこの両書の関係性についてははっきりとした結論は出ていない。ただ、古事記と違って、日本書紀は正式な国史として編纂された。国史としては、『日本書紀』、『続日本紀』、『日本後記』~と続いていくが、『日本書紀』が編纂された時代のことを記録したのが『続日本紀』となる。

『日本書紀』を読むときは、まずは岩波文庫版の「日本書紀」が定番で、原文と訓読、解説が並行して書かれている。現代語訳としては講談社学術文庫の「日本書紀」。この2冊が一番手に入りやすくて読みやすい。
研究対象として原典にあたるときは、例えばここにあるような平安時代に書かれた巻物の日本書紀、影印と言われるやはり平安時代に書かれた本を写真製版したものが手に入る。あるいは江戸時代に木版で刷られた日本書紀などもあり、ここに一部持ってきた。見てもらうとわかるように、写した人が書いた注意書きなども見ることができ、非常に興味を掻き立てる。

 

■『日本書紀』が編纂された時代の天皇

 【資料1】元明天皇と元正天皇

『古事記』成立期(712)に在位していたのが、元明天皇という女帝。
同時期に『日本書紀』の編纂も進められており、その『日本書紀』が成立(720)した時、在位していたのは元明天皇の娘・元正天皇という未婚の女帝だった。
『古事記』『日本書紀』という古代日本を代表する史書が成立した時、在位していたのが母子二人の女帝だったのは偶然ではない。
特に元正天皇は、律令国家「日本」建国(715)にあたり、権威の象徴として擁立された女帝だった。即位時には何ら政治的権力を持たず、国家的為政は律令制度の元、全国から集められた優秀な中央官僚が担っていた。
 

■『日本書紀』が編纂された時代の政権

その時代に政権を担ったのが石上麻呂と藤原不比等。708年に麻呂が政権トップの左大臣になり、同僚の右大臣不比等とともに活躍した。

【資料2】石上麻呂と藤原不比等の事績と冠位変遷

この時代に政権のトップにいた石上麻呂藤原不比等の事績と冠位を『日本書紀』『続日本紀』両書の記述から拾い上げてまとめたのがこの資料。
石上麻呂は冠位としては上から数えて19番目の大乙上から始まり、最後はトップの左大臣にまで上り詰めていく。これは会社で言うと平社員から社長、戦国時代を征した秀吉よりもすごいことかもしれない。こういう出世が具体的に描かれているのにまったく評価されていないというのが日本の歴史界の現状だが、私(関根先生)は非常に評価しており、日本の基礎を作り上げた人と思っている。
一方、石上麻呂が自分の後継者として期待をもって育て上げ、その期待に応えて成長していったのが藤原不比等と考えられる。非常にいい関係のパートナーだったというのが私の不比等像である。

■「高天原」に隠された謎

その、政権ツートップである石上麻呂と藤原不比等の冠位変遷を重ねてみたのが次の資料。

【資料3】石上麻呂と藤原不比等

石上麻呂が出世すると不比等が追いかけるというパターンが明らかである。不比等は、ずっと麻呂に付き従うように出世している。常識的に考えれば上司が出世するので部下が引っ張られると解釈するべきだろう。部下が一貫して上司を押し上げていくということは考えられない。
不比等が麻呂の階位を越えるのは、薨去後に追位された時である。不比等の立場から見ると、一度も麻呂を超えようとしなかったというのが事実である。

ここで「高天原」という言葉に注目してみたい。
『古事記』上巻冒頭の一文中
に「天」という字が3回現れている。

①天地初發之時:これは当時周知されていた「天地」
③天之御中主神:これは神様の名前
注目すべきは
②高天原
3回のうちこの「天」にだけ訓注が施してある。
「高下天云阿麻下效此」→「高天原」の「天」は「阿麻」と云い、以下これにならう
一般的には読みを説明していると言われている。

1115年に源俊頼によって書かれた「歌論」という和歌の手法に関する本がある。その中に「異名」という項があり、多くの物の名に異名があり和歌を詠むにはそれらを知っておくことが必要と述べられ、いろいろな言葉がリストアップされている。そのリストの最初に書かれている言葉が「天」であり、「なかとみ といふ」と説明が書かれている。つまり「天」というのは中臣氏を表しているというのだ。

「高天原」の「天」が中臣を表すとすれば、「天」を除いた「高原」は何を意味するのだろうか。
古代史ビューア【麻呂】で「高原」を検索してみると、古事記、日本書紀、続日本紀、出雲風土記、懐風藻、萬葉集など、この時代の主だった文献の中で、『続日本紀』に1回だけ現れることがわかる。その部分を見てみよう。

韓國連源(からくにのむらじみなもと)らが、先祖塩兒の父祖(石上朝臣麻呂)が遣わされた国名をもって名付けられた「韓國連」を、時代にそぐわないとして居住地である「高原」を連名にしたいと申し出て認められた、というのだ。
これでわかるのは8世紀後半の日本には「高原」という地名があったこと、そしてそこには物部大連の子孫が住んでいたということである。つまり「高原」というのは物部を意味すると言える。

以上より、「高天原」というのは「高原」(物部)+「天」(中臣)が合わさった言葉だと言うことができる。

さらにこの改姓の請願中に出てくる「物部大連」から「大連」(おおむらじ)に着目して続日本紀を検索すると3件該当することがわかる。その内、この請願部分に2回出てくるので、残る1回の部分を見てみると、石上麻呂が亡くなったことの記述部分(717年)である。石上麻呂も物部大連の子孫であることがわかる。

(インターネット検索と同じように、古代文献の語句検索も、いろいろなつながりや発見を見せてくれるのは素晴らしいことと思う。)

以上、「高天原」は麻呂不比等政権を意味するというのがこの言葉に隠された謎の答えに至るが、さらにその背景を知ることができる一つの検証をしてみよう。
日本書紀を「高天原」で検索すると7回使われているが、その内5回は神代巻で使われているが、残り2回は最終巻である30巻まで飛んで、持統天皇のおくり名(諡号)「高天原廣野姫天皇」(たかあまはらひろのひめてんのう)として使われている。持統天皇は石上麻呂と藤原不比等を政界に引き上げた人である。
つまり、
「高天原」という言葉は、持統天皇の諡号として作られた造語である、というのが結論。そして、それを神話の中に取り込んでいったと考えられる。

■これまでの石上麻呂に対する評価

古代日本史について、戦前は皇国史観が強く天皇中心主義の傾向だった。戦後は民主史観が入り天皇に敵対する勢力なども評価を受けるようになってきた。それに決定的な役割を果たした人物が上山春平と梅原猛。お二人はタッグを組んで「隠れた巨人」として藤原不比等を引っ張り上げ過大評価した。

【資料4】石上麻呂は平城遷都に反対、政治的な死刑宣告を受けた?

その代表的な記述部分をこの資料で紹介している。
続日本紀での710年の、記述では

始遷都于平城。以左大臣正二位石上朝臣麻呂爲留守

つまり、麻呂は藤原京に留守役で残ったと書いてある。そして没するまで麻呂に関する記事は現れない、ということから政治の第一線を退いた、政治的には死の宣告を受けたというのが彼らの主張である。
哲学者の二人の論評に歴史学者も追随してしまい、今日に至るまで不比等の過大評価、麻呂の歴史的功績の見誤りが定着してしまっている。

しかし「留守」という言葉は本来、中国で皇帝が都を離れたときに皇帝に代って執務する人のことを表し、重責である。決して評価が下がる状態ではなかったはずだ。

■石上麻呂が遷都時も活躍していた証拠が見つかる

【資料5】多胡碑の「羊」は、多胡建郡の申請者名だった。

群馬県で発見された多胡碑の中に「石上尊」「藤原尊」という字が刻まれている。また「羊」という字もありいろいろな論議があったが、申請者名だということを平川南さんという方が明らかにした。そのポイントとなったのが長岡市八幡林官衛遺跡から出土した申請書としての木簡だった。そこには「長官 尊」と書かれており、敬称としての「尊」が常用されていたことが明らかになった。したがって、多胡碑に「石上尊」「藤原尊」と書かれているのは「羊」という人物が多胡建郡の申請を行って認められたことを表す碑だと考えられる。
当時の習わしでは建郡のような大きな申請の了解を伝える時、申請した人に口頭で結果を伝えた。「羊」という人物は申請者であり、それを聞き取って文章化し碑にしたものが多胡碑なのである。
その
口頭通達の場には、石上麻呂と藤原不比等が列席していたので「尊」という敬称を付けて名前を列挙したと考えられるわけである。
したがって多胡碑の碑文は、平城遷都の最中、石上麻呂が左大臣として執務していた動かぬ証拠と言える。
上村春平と梅原猛の石上麻呂説は、まったくの誤りである。

■平城遷都

以前は710年に平城遷都が終わったと言われてきた。
続日本紀には「始遷都于平城」と記されており、710年に遷都を始めたと考える方が普通ではないのかという疑問がわく。

最近、平城京大極殿跡から発見された木簡が710年遷都終了説の誤りを明確にしてくれた。大極殿の土台の下から714年に書かれた木簡が発見されたのだ。つまり714年の時点で大極殿の土台はまだできていなかったということ。平城京大極殿が藤原京から移設されたことは以前から知られている。今回の発見でその時期が714年の後半から715年くらいの時期であることが分かった。
つまり710年時点で平城遷都は終わっていなかったということであり、続日本紀の記述の通り710年から始まったのである。
なお715年に即位した元正天皇の即位式は平城京に移設された大極殿で行われている。

整理すると
708年 元明天皇が即位後に平城遷都が決められる
710年 平城遷都が始まる
715年 元正天皇が即位(平城京大極殿にて)
この時に新しい都ができたということを国内外に宣言したことになり、平城遷都が終わったのはこの715年とみるべきだ。

■平城京の素顔

【資料6】平城京は、石上麻呂と東国人たちが造った!


この資料に掲載している平城京地図は私(関根先生)が作成したもの。当時の様子を表す特徴的な事項を盛り込んでいる。
まず、奈良といえば東大寺、興福寺、唐招提寺などお寺がたくさんあるイメージだが、平城遷都時には藤原京から平城京に移ったお寺はひとつもなかった。つまり政教分離が図られており、平城京は律令国家の行政都市として誕生した。
この地図は上が南を向いている。古代東南アジアでは方位の基準が南だった。したがって、南を向くと左は東方向になり、「左」という字は辞書を見ても書いてあるが東を意味し、これは非常に大事な知識となる。ちなみに佐藤の「佐」は東国人という意味を持つので、「佐藤」は東国人の藤原さんに由来するという想像もできる。
奈良市にはその「佐」の字を冠した佐紀町という町名が存在する。位置的には大極殿の周囲にあたる。漢字「紀」には、治めるという語義がある。京域を横切る川が、佐保川というのも興味深い。この資料に記しているように平城京は東国人(佐)が作り上げたということの表れととらえられる。

■女帝時代

上の資料の左上に武則天を題材にした映画のタイトルイメージを載せてある。日本書紀が成立した時代は最初に見たように、元明天皇、元正天皇と女帝が2代続いた時代だった。そのことに大きく影響を与えたのが中国で690年から705年まで即位して「周」という国を名乗った中国で唯一の女帝武則天である。(即位するまでは則天武后と呼ばれていた)
在位時期は持統天皇とかなり重なっており、強烈な個性を持った女帝だったこともあり、日本にも大きな影響を与えたと考えられる。

【資料7】則天武后

■石上麻呂が平城京、律令国家を実現した

「日本」という国がいつできたかははっきりしない。「日本」という言葉が使われだしたのは天武天皇の時代らしい。、しかし国名として実際に使われたのは、大宝律令ができ、平城京という行政機能を持った首都が完成、元正天皇が擁立された霊亀元年(715)であると考える。
そして、それを牽引したのは左大臣石上麻呂である。

【資料8】律令国家「日本」建国の父、左大臣 石上麻呂

石上麻呂が左大臣として平城京で活動したとすれば当然屋敷もあったはずである。それが「長屋王邸」として誤認された左京三条二坊の館跡であると考える。
この発掘により出土した多くの木簡の中に「少書吏」「大書吏」などの表記が見つかっている。これはここにあった邸の主は二品以上の皇族ないし二位以上の貴族であることを物語る。当時の該当者としては共に正二位の左大臣石上麻呂と右大臣藤原不比等しかいない。不比等邸はこの時期他所にあるので、麻呂の館とみるべきである。

地元出身の人物ではないと、その地域で評価されないということがしばしば見られる。明治時代、見附・栃尾地域出身で関西財界の礎を築いた外山脩造という人がいた。しかし関西で評価が高いとは言えない。新潟でもその名を知る人は少ない。地元では何もせず、顕彰する人がいなかったからだ。
東国出身の石上麻呂が、忘れられたのもそういったものかもしれない。しかも1300年前の人物。忘れ去られても不思議ではない。

石上麻呂と不比等は理想主義者だったのではないか。日本をまとめるためには権威の象徴としての天皇をおく必要がある。その際に武則天を参考にし、女帝を置いたのではないか。元正天皇は石上麻呂が擁立した女帝だと思う。天皇は権威の象徴とし、権力は持たせない。一般庶民の帰属意識を中央に向かせ従わせるには天皇という権威が必要だが、政治的権力はその天皇に持たせてはいけない。政治は律令制度のもと、健全な理念を持った官僚が行う。そういう気持ちで未婚の女帝を立て、新たな斎宮制度まで作った。
元正天皇の次には井上内親王を据えるようにしておいたが、麻呂の死後、わずが3年で後継者の不比等も亡くなり、反動勢力に担がれた聖武天皇が即位してしまった。

■平城京と相模国のつながり

萬葉集には防人や東歌など東国人の歌がたくさん収録されている。大伴家持が相模守を務めたことを考えれば自然なことである。それどころか、防人歌、東歌を集めたことが萬葉集を作るきっかけだったとさえ思われる。家持の歌は驚くほど東歌や防人歌と同じ手法を取り入れている。
家持は石上政権のナンバー3大伴安麻呂の孫。歴代の相模守には麻呂や不比等の配下をはじめ、家持の兄貴分として二人の孫(藤原良嗣と石上宅嗣)がいた。古代の相模は、石上政権の直轄地という様相を呈している。

そういう相模国と平城京のつながりを示す痕跡を評価したのが森浩一さん。「関東学をひらく」という本で相模国の調邸を論じている。

【資料9】相模国の調邸は、左大臣石上麻呂の経済的基盤だった。

調邸とは交易所のようなところで、運河に面した場所に設置されていた。特筆すべきは相模国の調邸以外、例えば武蔵国や上野国などの調邸があるかと思えば、今のところ見つかっていない。相模国の調邸だけしか確認されていないのだ。

平城京を作るときに建物の瓦も大量に作る。瓦を造るとき型と粘土の間に敷く瓦布(かわらふ)も大量に必要となる。その瓦布の特産地が関東であり、仕入れを一手に抑えていたのが相模国の調邸だったと考えられる。

つまり石上政権を支える大きな経済的基盤だったのが相模国の調邸だった。少なくとも相模国以外の調邸が見つからない現状においてはそう考えて間違いないだろう。

資料の左下に藤沢市鵠沼の地図を載せている。現在でも小字に「石上」「藤原」という名前が残っているのは偶然とは考えられない。

■古代日本が新羅から受けた影響

石上麻呂が日本書紀に初登場するのは壬申の乱(672)で、敗戦の将、大友皇子に最後まで付き添った人物として記されている。
次に登場するのは4年後の676年、大乙上(上から数えて19番目の階位)という下級官僚として新羅大使となり、半年間ほど新羅に渡る。その頃の新羅は羅唐戦争の最中、しかも滞在している間に新羅が唐に勝利するというエポックな時期だった。なぜ敵軍の将だった麻呂が、低い階位で遣新羅大使となったのだろう?そこに石上麻呂の出自を探る糸口がある。

【資料10】石上麻呂は、元暁の思想を昇華、平城遷都を実行し日本建国を実現したが…。

この当時、新羅では元暁という僧に注目が集まっており、特に花郎集団などに支持されていた。元暁が説いていたのは「和」という思想だったが、これに触れた石上麻呂もかなり日本に持ち帰ったと思われる。ちなみに左大臣になった708年には「和銅」という元号をつけるが、「和は金に同じ」と読める元号は元暁の思想そのものではないか。石上麻呂は元暁の「和」の思想を日本流にアレンジして平城遷都や日本建国に役立てたのではないか。
しかし、麻呂、不比等の死後、元正天皇や聖武天皇をあやつる反動勢力はそれを崩壊させていった。聖武天皇の大仏建立はその最たるもの。律令制度で入ってくる収入を天皇や貴族たちが奪い合い、ムダ使いしていくことから律令制度の崩壊が始まった。

■石上政権の陣容

これは続日本紀の708年3月13日の部分。石上麻呂が左大臣に就任するとともにその陣容が列挙されている。

そして、それをリストに整理したのが次の資料。

【資料11】石上麻呂は律令制度を構築、日本建国を果たした。

この内、国史の任命順上位15国を赤で塗り潰したのが左下の地図。東国で占められていることがよくわかる。伊賀、三河から相模、安房などは、石上政権の直轄地だったと考えられる。
また緑で示してある国は713年に新設された美作国。その読みは「和名抄」に「三万佐加」と記されており、文字の意味を読み解くと、「三」:たびたび、「万」:多くの、「佐」:東国人が、「加」:加増されたとなる。

■平城京建設の長官、阿部宿奈麻呂

708年に造平城京司長官についた阿部宿奈麻呂は石上政権で律令国家「日本」の建国に大きな役割を果たした。

【資料12】阿部宿奈麻呂は引田・阿部氏を率い、平城遷都を実現した。

もともと引田宿奈麻呂と名乗っており、704年に阿部に改姓した。「引田」の地名から、出身は現在の東京都あきる野市付近の可能性が高い。

■麻呂、不比等の後継者 長屋王

麻呂、不比等の後継者とみられる長屋王は不比等亡き後724年に左大臣になる。しかし5年後に罠にはまり自殺に追い込まれる。この背景にあるのは東国勢力の確執と利権争いであると推定する。

【資料13】長屋王の変は、東国勢力の分裂と抗争が背景にあった。

■終わりに

本日は日本書紀成立期の時代背景というテーマで駆け足で振り返ったが、ここ数年の私(関根先生)のテーマの2/3ほどの内容を一挙に俯瞰した形になる。
この度の日本書紀シリーズで学ぶ内容の重要な背景なのでその中でも触れる事項は多いと思うが、大切な資料ばかりなので、気になる点があればぜひ個別に問い合わせしていただきたい。

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