『日本書紀』を読む(5)遣唐使・遣周使と日本建国

見附市学びの駅ふぁみりあでシリーズ開催されている「古代日本史講座」。
17期の『日本書紀』成立1300年!その謎を解くシリーズ。今回はその第7回「『日本書紀』を読む(5)遣唐使・遣周使と日本建国『第二回遣唐使(653)に参加した若者や関係者が、律令国家「日本」を建国した。』」と題して、第二回遣唐使のメンバーの重要性に迫る。
※以下「私」と記述している部分は関根先生のことを指しています。

■プロローグ:遣唐使概要

今日のテーマである第二回遣唐使の話に入る前に、一般的な遣唐使の知識がわかりやすい講義形式の動画があるのでそれを見てもらいたい。

この動画では次のような内容を話している。
618年に唐が中国を統一し、周辺諸国との交流が盛んになってきた。日本も630年に最初の遣唐使を派遣し、894年に菅原道真の建議により廃止するまで十数回の派遣が行われた。たくさんの大使、留学生、学問僧などが唐に渡り、日本の政治・文化に大きな役割を果たした。

■古代日本の中国との外交を概観する

【資料1】資料紹介 河合敦『早わかり日本史』(日本実業出版社1997)
この資料で対中国外交を概観する。遣唐使の前にも中国と日本はかなり昔から交流があった。今回の講座シリーズでも卑弥呼の時代の中国との関係をお話した。それがとだえてしばらくしてからまた5世紀くらいに交流が始まったが朝貢外交で会った。その後、隋という時代になって聖徳太子が交流を進めた。基本的に平等の外交で隋に対したというような話が残っている。その後、8世紀には20年に1度の割合で遣唐使を派遣していたが、9世紀に菅原道真の建議により廃止された。
この長い歴史を持つ遣隋使~遣唐使の中でも、8世紀に鑑真が来日したり、藤原仲麻呂が唐に渡って出世して帰してもらえなかった一方、吉備真備が帰国して活躍し右大臣にまでなるという活躍をしたことなどが有名である。

しかし、ここ数年、平城京遷都の前後の歴史をテーマに調べ始めてみると、第二回遣唐使の重要性の重要性が浮き上がってきたが、一般的にはほとんど取り上げられることがない。今日はこの部分にスポットを当ててゆきたい。

■律令制度とは

遣唐使により中国から日本にもたらされたもので政治に大きくかかわるものと言えば律令制度であろう。少し整理しておきたい。

律令制度は調べれば調べるほど面白い。それも時代によって変わっていく。

【資料2】資料紹介 河合敦『早わかり日本史』(日本実業出版社1997)


この資料の図に整理してあるが、668年の近江令から始まり、10世紀頃(平安時代)まで続く。
この律令制度で作られたしくみは明治以降、現代の官僚システムまでかなりの部分で続いている。律令制度とは官僚システムなのでいわば政府の形の取り決めである。この本には「ややゆるやか(!?)な律令」としているが、私の感想としては中国よりもかえって整っているのではないかと思う。中国はそもそも儒教の国なので、国の仕組みを法律で取り仕切るというのは中国全史から見るとかなり例外的である。

この律令制度を最大に活用したのは「則天武后」、後の周という国を作った「武則天」という中国唯一の女帝が、自分の配下を作るために使ったものと考えてよい。
日本の「天皇」という呼称もこの武則天の律令制度からとってきたと考えられる。
則天武后と同時期に日本では持統天皇が誕生し、その体制の中で大宝律令というしっかりしたものが作り上げられた。

この資料の表で大宝律令の中心人物に刑部親王と藤原不比等、養老律令に藤原不比等の名前を挙げているが、忘れてはならないのが石上麻呂である。不比等と一緒に、あるいは不比等を強く牽引して律令制度を作り上げたのは石上麻呂だからである。

平安時代になると「格式」というものが制定される。これは律令を修正して施行規則を定めたもの。

律令制度については、誰が日本にもたらし、どのように運営していったのかというのをもっときちんととらえなければいけないのではないかと、私は思っている。特に初期段階についてはほとんど研究されていないのではないかと思う。
例えば石ノ森章太郎の「日本の歴史」は監修もしっかりしているが、第二回遣唐使については何も触れられていない。

それが、現在の一般的な遣唐使のとらえ方であることをまず認識しておきたい。

■「日本」(ヤマト)建国と遣唐使に対する私の思い

今日の講義表題は「遣唐使・遣周使と日本建国」だが、「日本」という古代語(実は「ヤマト」)がいつできたのか、「ヤマト」という名前の国がいつできたのか、ということはよくわかっていない。取り上げられる本によっていろいろな書き方がされる。
この「日本」という国がどういうふうに誰によって作られたのかということをしっかりとみていきたい、というのが私の思いである。なぜかというと、まさに『古事記』が成立した時代のことだからである。『古事記』は712年に成立したが、その『古事記』を作った人たちの話である。
自分自身が『古事記』の研究から始まったのだが、よくわからないことが多かった。わからないのならそれができた時代背景を探っていったらいいのではないかという思いで古代史研究に取り組んできた。
それには712年以前の10年、20年、さらにさかのぼって30~40年、50~60年あたりのことが研究の対象となる。それはまさに第二回、第三回遣唐使の時代が大きなポイントになってくる。

結論から言うと、遣唐使がもたらしたものから律令制度をはじめ様々なものができ、「日本」という国が生まれていったと言える。

今回はそこのところを詳しく話そうと思っていたが、現状でまだまとめきれていないので、回を改めてお話したいと思う。

■真の「日本建国」とは

ここに紹介する資料は榎本秋さんという方がまとめた図解を中心とした本で、表紙イラストも本格的なものでイメージが膨らみ見ていて楽しい。

【資料3】資料紹介 榎本秋『徹底図解 飛鳥・奈良』(新星出版社2008)

「大宝律令-『倭』から 『日本』へ」というタイトルが付いた章を紹介しているが、このタイトルを見ると「倭」から「日本」になったのは大宝律令のできた701年頃なのではないのか、ということがにじみ出ている。
「大宝」は年号である。年号については645年頃に「大化」という年号が作られて以来、途中中断しながら使われてきた。それが「大宝」になってから現代まで1300年の間途切れることなく年号は使われてきている。そういうことからも「大宝律令」は注目すべきものである。
また確かに大宝律令のもと、国号も「日本」として改められた。

この資料の図の下部には日本の思惑と唐の認識の間にはズレがあったことが説明されている。ズレは国内にもあった。「天皇」という君主号が最初に使われたのは天武天皇であることは間違いないと思う。これは発掘された木簡からも証明されている。ただし、かと言って「日本」という名前がしっかり国号として認識されていたかというと疑問を感じる。たぶんそのようにはなっていなかったのではないかと思う。

それでは歴史的に見て日本が本当に「日本」と呼ばれたのがいつ頃なのか。まず律令制度ができる、そして「和同開珎」という貨幣ができる。そして何よりも708年に石上政権ができてきちんとした官僚制度が整備される。かつ政治を行うための都が整備される。そういう何拍子もそろって作られたものを新しい天皇の即位とともに発表した。それが霊亀元年(715年)にあたる。さらにそれを記念する形で『日本書紀』という歴史書が完成した。これらをもって「日本」の建国がなされたと私は考えている。

中国の律令国家と日本の律令国家では決定的な違いがある。
中国の律令制度は皇帝、もっと具体的に言えば「武則天」のための制度であった。それまでは一族が牛耳っていたが、武則天は高官数百人を粛清してしまった。そのために国をまとめていくための才能ある人材が必要になり、「科挙」制度を利用して優秀な人材を集めた。そのために律令制度を整備したという経緯がある。
ところが日本は律令制度を整備するにあたり、天皇はお飾りにし、官僚そのものが国を支配するというしくみにした。その結果が藤原氏の台頭になっていった。

■石上政権が作り上げた律令国家

先ほども述べたように、この頃誕生した律令制度は現在まで綿々と受け継がれている。ただし、制度である以上、トップが腐れば制度そのものも腐敗していくのはいたしかたない、それは昔も現代も同じだ。
しかし、石上政権時の国家はかなりきちんと機能していたと思われる。

【資料4】律令国家「日本」建国の礎を築いた中央官僚たち。


和銅元年(708年)に石上麻呂が左大臣につき、石上政権が完成した時の官僚たちの一覧を資料にまとめた。こうしてみるとすごくしっかりとした組織ができていることがわかる。

官僚一覧の「太宰帥」に位置している「粟田朝臣眞人」は、今日のテーマ「日本建国」を語るときに必ず登場する人物。700年初頭、周に渡り、武則天に会い「日本」について語ったと記されているからである。しかし、どういう形で周に渡り武則天と面談したのかという経緯は何も残されていない。小役人に「どかから来たか」と問われ「日本から来た」と答えたという会話が書かれているが、それを「日本が送り出した」と解釈する人が多い。それをもって「日本の国は700年初頭にできた」とする人はかなり多い。
しかし、日本の国史として行ったという表現があえてされていない。眞人が小役人に対して「日本から来た」と名乗ったという記述しかされていない。その時に「ここはどこか」というような質問をしたりしていて、妙な会話となっている。

持統天皇の頃まではここまでしっかりした陣容はなく、皇族にまつわるできごとがいろいろ書いてあるに過ぎない。ここまでしっかりできていればかなりの国づくりが始まったとみてよいのではないか。
まさに708年にはこうした形で中央官僚が支配する国ができたことが書紀の中には書かれている。

■古代史ビューア【麻呂】を使って日本建国の軌跡をたどる

いつもの講義では私が【麻呂】を操作して文献検索を見てもらっているが、今日は受講生の方から数名の方に出ていただき、私がサポートするのでご自分で検索作業を行っていただくこととする。

まずは『日本書紀』を執筆するには漢字を使う必要があり、そのための辞書が編纂された。それが「新字」である。


その「新字」というキーワードで検索をスタートすると『日本書紀』には1か所の該当があり、「境部連石積」等が命じられて44巻からなる辞書を作ったことが記されている。そこから人物名をたどっていくと第二回遣唐使にたどり着く。

次のキーワードは「日本」。

『日本書紀』には「日本」という言葉は232回も登場するが、『古事記』には1回も登場しないことがわかる。では『続日本紀』はどうか『日本後記』と辿っていくと意外な状況が見えてくる。

最後は「粟田眞人」。

先ほども何回か取り上げたが、この人物も石上麻呂と共に重要なところに登場することがわかる。

(実際に操作された受講生の方々はそれぞれに納得されていたようだ)

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