見附市学びの駅ふぁみりあでシリーズ開催されている「古代日本史講座」。
17期の『日本書紀』成立1300年!その謎を解くシリーズ。今回はその第8回「『日本書紀』を読む(6)持統天皇と高天原誕生の謎『高天原とは、物部(高原)と中臣(天)を合わせた政治的造語だった。』」と題して、持統天皇と「高天原」の謎に迫ります。
※以下「私」と記述している部分は関根先生のことを指しています。
■プロローグ:古代史研究ということについて
今回のテーマである持統天皇を述べるにあたって、私の古代史研究の立場と視点を明確にしておきたい。
「歴史」とは、人間世界の時間経過であり、その記述である。一言でいえば、書かれた過去。
誰かが書いて残さなければ歴史にはならない。
そして、研究においては、書かれた過去の内容を確認、批判、検証し、自らの立場と視点から書き換えることであると言える。
私が現在メインの研究テーマとしている8世紀前後における基本文献としては『古事記』、『日本書紀』、『続日本紀』(あとは『萬葉集』)が存在する。
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『古事記』(712)
→年時のない古代~近代史。本音で歴史的事実を造語で記述している。
『日本書記』(720)
→年時のある古代~現代史。事実の記録と共に、政治的作り話が多い。
『続日本紀』(797)とは?
→年時のある現代史。多くは事実の記録だが、政治的な記述操作が目立つ。
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今期のテーマは『日本書紀』を取り上げてきた。
■持統天皇
一般的な持統天皇のイメージを確認するために、NHKで放映された「歴史ヒストリア」で持統天皇が取り上げられた回の録画を編集したものを見ていただきたい。
(10分程度の録画を視聴)
番組では古代日本を作り上げた人というふうに紹介されている。(私の立場は少し異なる)
番組中で取り上げられていたように藤原京を始め、国府の所在地を中心に全国いたるところに12mや20mの道路を建設したと思われる。
『萬葉集』を見ると道を表す言葉として「美知」という字で表現されていることがわかる。「知」という言葉は、漢字海によると、一般的な「知識を得る」の他に「しらせる」という意味がある。「美」は女帝のことを表していると考えられる。つまり、女帝の威光を知らしめる、という意味で「みち」という言葉が使われ始めたのではないかと想像する。
このような権力を発揮するためには官僚制度がしっかりしていないといけないと思うが、持統天皇の頃の官僚制度ははっきりしないところがある。後の石上政権くらいになると、国司の任命表のようにかなりしっかりとした姿が見えるようになるのだが、持統天皇の時期についてはそこまでしっかりしたものが出来ていなかったと考えられる。
それと番組内で持統天皇の頃は遣唐使の行き来がなかったので、唐の情報が入って来なかったと解説されている。そのために当時の長安のような都の作り方ではなく、古い中国の書に載っているように、都の真ん中に宮殿を置く形になったという。
しかし、例えば『日本書紀』の執筆に大きくかかわっていると考えられる續守言と薩弘恪など、捕虜などの形で多くの唐人が日本に来ている事実がある。それらの人々から情報は入るはずだ。
持統天皇の頃、中国は則天武后による睡簾政治から武則天による周の建国の時期だったが、武則天の行っていた制度はかなり日本に入ってきていると思える。官僚制度そのものが武則天が活用した制度であり、遣唐使とは別の形として日本に入ってきたと考えると理解しやすい。
武則天と持統天皇の共通項をまとめてみた。
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武則天と持統の共通項
在位期間
→武則天(690-705)
→持統天皇(690-697)
※文武天皇に譲位後も崩御(702)まで為政に関わった。
火葬
→武則天(624-705)
→持統天皇(645-702)
※文武王(626-681)新羅で初めて火葬された王。
※道照(629-700)遺命により日本で初めて火葬に付された。
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火葬という風習がちゃんと日本に伝わってきていることは興味深い。
そんな持統天皇だが、和風諡号(送り名)は「高天原廣野姫」(たかあまはらひろのひめ)という。本日のメインのテーマとしてこの「高天原」について論考してみたい。
■「高天原」の真実
【資料1】資料紹介 武光誠『古事記・日本書紀を知る事典』(東京堂出版1999)
この本の著者である武光誠さんは最近多くの本を出されていて、読みやすい内容が多い。「高天原」についての部分を資料に引用したが、私の主張とは異なるが、このような見方があるというのは事実だと思う。
ポイントは2つあり、まず、「高天原」という言葉は古事記の時代に改めて作られた言葉であるという視点が述べられており、私も同意する。
2つめが、空を表す「天原」に「すぐれて尊いありさまを表す「高」を付けたのが「高天原」であり、そこに古事記や日本書紀に登場する神々が住んでいたということである。少なくとも『古事記』も『日本書紀』もそういうとらえかたができるような書き方になっていることは事実である。しかし、そのような表面的な書き方の裏に何があるのかという視点も必要であると思う。
それでは具体的に『古事記』『日本書紀』などで「天原」「高天原」がどのように使われているのかを古代史ビューア【麻呂】で見てゆきたい。
まずは『萬葉集』を「天原」で検索すると12件の該当箇所がある。見ていくといずれも空のことを表しているようだ。
続いて『続日本紀』。こちらは10件が該当する。検索して確認していくといずれも「高天原」の一部として使われている部分である。漢文で書いた国史の中では「天原」という使われ方はされていないということになると、「天原」という言葉は日本語の感覚で使われていたのかもしれない。
それでは『日本書紀』を見てみよう。全部で11件登場するが、神代記の10件の後は1件だけ、途中登場しないが最後の持統天皇の部分で和風諡号として登場する、
これは不自然と感じる。
また、『日本書紀』では「高天原」でなく「天原」単独で使われている箇所が4か所見られる。これらの使われ方を見ると、本来は「高天原」と表記されてもいいところを「天原」として表記していると思われる。これは故意か過失かわからないが、「天原」という使い方があったものをある時期に「高天原」に変えたからではないかと思う。その「ある時期」とは持統天皇に「高天原廣野姫」という名前を付けた時であると私は考える。
【資料2】根本的な誤読から生まれた様々な高天原諸説
この資料で紹介しているのは安本美典氏が高天原をテーマにまとめた貴重な研究書。安本氏の手法は様々な文献を集めて整理するというものであり、この本も「高天原」に関する様々な理論説を紹介し、分析し論及している。
先ほども述べたように「天原」は空を表すととらえる考えがあり、それを天上説としている。また、地上のどこかに存在したと考える地上説があり、国内から海外にまで論考は広がっている。
しかし、私の主張はまったくこれらに属さない。
石上麻呂と藤原不比等という、『古事記』や『日本書紀』が作られた時代。言葉というのは必ず歴史的な背景を持っているというのが私の主張。なぜかというと歴史は書かれたものであり、書いた時期の書いた人の立場に歴史的背景、社会的背景が反映するものだと思う。
「高天原」という言葉もそうである。石上麻呂を表す「物部」、藤原不比等を表す「中臣」を併せた言葉と考えられる。したがって、該当する地域を探しても意味がない。
物語としては天上に神様がいたという風な書き方をしているが、その裏に隠されているのはその時期の為政者たちの思惑を言葉に反映したものである。抽象的な物語の裏に、時代時代の具体的なお話が隠れている、という風に私はとらえている。
安本氏は、これだけの論考を整理しているのだから、『古事記』『日本書紀』の記述についても論及すべきだと考える。
「高天原」については、私が『古事記』をやりはじめて一番初めに引っかかった問題。
ここにある岩波文庫版の『古事記』は訓読、訳文、原文が載っており、非常に研究に取り組みやすい構成になっている。しかし、土台が本居宣長の『訂正古訓古事記』の訳になっている。
原文を参照してみると、冒頭の一文の中に「天」が3回使われている。そこに注があり、「高の下の天は阿麻と云う」と書かれている。しかし、本居宣長の読みは「たかまのはら」となっている。これはよく理解できないので、その時代のことをよく知る必要があると思い、古代史の研究に入ってきた。しかし、この読み方でさえはっきりしないというのが現状である。
『古事記』や『日本書紀』には注がたくさん書かれている。「背中」とか「割注」と呼ばれるが、それらをどう解釈するのかが研究課題にもなる。
そんな時代背景を調べていくうちに第二次遣唐使(653年)がキーになるとわかってきた。
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第二次遣唐使
白雉4年(653)に渡唐し、朝鮮半島を経て帰国(665)した人々。
→定恵(643-667)中臣鎌足の長子で、不比等の兄。
→道照(629-700)玄奘三蔵に師事。日本で初めて火葬された。
→粟田真人(?-719)大宝2年(702)5月に参議となり、渡周(703)した。
→韓智興(生死不詳)別倭種のため冤罪で配流後、許されて定恵と共に帰国。
※伊吉連博徳(生死不詳)智興の無罪を弁明、大宝律令の編纂にも参与。
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定恵は帰国した翌年に亡くなるのだが、この人物が石上麻呂と藤原不比等を結び付けたと思われるからだ。つまり、石上麻呂の前身である人物が定恵とともに唐に渡っているのだ。道照は初めて火葬された人。粟田真人は「日本」という国名を対外的に初めて使った人。韓智興は石上麻呂その人と思われる。< br />
持統天皇の事績を見るときに、石上麻呂の事績を振り返ると、その時代のことがよく見えてくるので、古代史ビューア【麻呂】を使って振り返ってみたい。
まずは『日本書紀』記載部分。
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壬申の乱(672)で、大友皇子の死を看取る。
大乙上で遣新羅大使(676)になる。
羅唐戦争(670-676)終結後に帰国する。
天武天皇十年(681)粟田眞人等と共に小錦下を叙位。
朱鳥元年(686)天武天皇崩御時、法官について誄する。
持統三年(689)筑紫に派遣され、新城を監する。
持統三年(690)持統天皇即位時に大楯を樹する。
持統十年(696) 政権のナンバー4になる。
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次に『続日本紀』記載部分。
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文武四年(700)10月15日石上朝臣麻呂が総領になる。
大宝元年(701)3月21日石上朝臣麻呂が大納言になる。
大宝元年(701)7月21日左大臣多治比眞人嶋が薨去。
大宝二年(702)8月16日石上朝臣麻呂が大宰師になる。
大宝三年(703)閏四月右大臣阿倍朝臣御主人が薨去。
慶雲元年(704)1月7日大納言石上朝臣麻呂が右大臣になる。
慶雲元年(704)1月11日二千一百七十戸を益封される。
和銅元年(708)1月朔11日正二位となる。
和銅元年(708)3月13日石上麻呂が左大臣になる。
和銅元年(708)7月15日石上麻呂政権の成立を祝う。
和銅三年(710)3月10日平城遷都開始され旧都の留守となる。
和銅三年(710)7月朔7日左大臣舍人の牟佐村主相摸が瓜を献上 。
養老元年(717)3月3日左大臣石上麻呂薨去。
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■「高原」と「天」についての論考
さきほど物部を表すのが「高原」であるという話をしたが、「高原」を検索すると『古事記』『日本書紀』『萬葉集』には1回も現れない。ところが『続日本紀』に1回だけ登場する。790年のところである。
韓國連源という人が「自分は物部大連の子孫である。物部は自分の住んでいるところの名前をつけたりして180氏ある。源の先祖である塩兒は自分の住んだ国の名前に由来して物部連を韓國連にした。しかし、われわれは大連の子孫で本来は日本の古い民の子孫であるが、今韓國を名乗るといろいろと都合が悪いので名前を自分の住む場所の名前に変えたい。そのようなことで「韓國」を「高原」に変えたい。ということで許されたという記述である。
ここで重要なのは「高原」というのは住んでいる場所であるとしていることである。「高原」というのは先ほど見たように、8世紀の書物の中でこの1か所しか登場しない。韓國連は下野の人である。下野にあるのが高原山であり、現在もそう呼ばれている。つまりこの「高原」というのは栃木県那須である。
さらに「自分は物部大連の子孫である。」というところに注目する。「大連」を検索すると『続日本紀』に3回登場しており、うち2回は、今ほどの790年の部分。残りの1回は717年に石上麻呂が亡くなった部分である。そこには石上麻呂は「大連物部目」という人の子孫であると書かれている。
これで「高天原」のうち「高原」は明らかに物部氏のことを指していることがわかる。
そうすると「天」とはなんだろうということになる。そんな中ある1冊の文献に出会った。平安時代に書かれた歌論『俊頼髄脳』である。
この中で、すべての言葉には異名(違う言い方)があるとして様々な言葉が並んでいるのだが、その先頭に「天 なかとみ」と記されている。
これで、
高原 : 物部
天 : 中臣
という推定が成り立つ。つまり、「高天原」というのは「物部」と「中臣」を組み合わせて作った言葉であると言える。
そして、その「高天原」を持統天皇の和風諡号「高天原廣野姫」として使ったのである。そういう政治的用語であるというのが私の説である。
ここまで話してきたことをこの資料にまとめてある。
「高天原」は物部を表す「高原」と中臣を表す「天」を組み合わせた言葉で、麻呂と不比等の政治的立場を表している。空を意味する「天原」にすぐれたという修飾語の「高」をつけたという使われ方はしているが、言葉そのものの成り立ちは極めて政治的な背景から作られたものである。
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