『日本書紀』を読む(3)崇神天皇と古代王権の萌芽

見附市学びの駅ふぁみりあでシリーズ開催されている「古代日本史講座」。
17期の『日本書紀』成立1300年!その謎を解くシリーズ。今回はその第5回「『日本書紀』を読む(3)崇神天皇と古代王権の萌芽」と題して、崇神天皇と景行天皇の事績を中心に進めていく。
※以下「私」と記述している部分は関根先生のことを指しています。

■プロローグ「ごみの不法投棄事件から歴史に向き合う姿勢を再確認

最近、私の自宅近くの道路にごみの不法投棄が多発していた。
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あまりにも目に余る状態が続いていたが、先日ごみの中身が道路に散乱しており、いくつか個人を特定するような書類が見つかったので、ひとつひとつネットなどで調査した。その結果、容疑者が通っていたと思われる現在の職場、過去の職場、商業施設などを明らかにし、人物を推定することができた。それらを警察署に届け出て、捜査してもらった結果、推定した容疑者が犯人であることが判明した。

今回の事件とその対応を通じて、歴史に向き合う姿勢・手法と同じであると感じた。現代に残されている断片的な資料、物的証拠、地理的条件などを丹念に分析し、こうであろうという歴史的事実、人物像などを明確にしていく。そしてそれらを記録していく。客観的な事実の積み上げこそが歴史研究には大事なのではないだろうか。

■ウィキペディアで概観する

『日本書紀』』の第五巻から書かれているのが崇神天皇。ウィキペディアの記載を確認してみると次のようなことが書かれている。

・和風諡号は『日本書紀』では御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらのみこと)。
・四道将軍を派遣して支配領域を広げ、課税を始めて国家体制を整えたことから
御肇國天皇(はつくにしらすすめらのみこと)と称えられる。
・『古事記』では御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと)。

神武天皇についても初めて国を作ったという位置づけになっているが、神武天皇という人物は実在せず、崇神天皇が初めて実在したのではないかということが一般的に言われている。

掲載されている系図を確認してみる。

崇神天皇は第10代となる。これ以前は欠史と言われていてなにも事績が書かれていないが、崇神天皇の代から詳しい事績が書かれるようになる。状況としては国際的な広がりが出てきて任那、新羅、百済などがこのあたりから登場する。

第11代垂仁天皇
・和風諡号は『日本書紀』では活目入彦五十狭茅尊(いくめいりびこいさちのみこと)
・『古事記』には「伊久米伊理毘古伊佐知命(いくめいりびこいさちのみこと)」とされている。

この後、12代景行天皇、13代成務天皇と続くが、この範囲が本日のテーマになる。

■崇神天皇と「四道将軍」

【資料1】資料紹介 別冊宝島1671『古事記と日本書紀』(宝島社2010)

崇神天皇は諸国平定を企図して、「オオビコ」の活躍など全国に将軍を差し向けたとされているが、『古事記』と『日本書紀』では食い違いがある。この本は『古事記』での記述をベースに解説してあるが、記紀の違いを別枠で説明して「平定の過程を象徴化したものだろう」としている。

■空白の四世紀

この時代に日本については、中国や朝鮮にほとんど資料がない。日本では『古事記』『日本書紀』にヤマトタケルを代表とする英雄が登場し、小説やコミックなどでもよく描かれていたりするが、全部が全部史実とは思えない状況だ。事実は何かという視点で『日本書紀』を読んでみると、具体的に歴史的事実と考えられることはほとんどない。

【資料2】資料紹介 主婦の友ベストBOOKS『古事記と日本書紀』(主婦の友社2010)

この資料に述べられているようにヤマトタケルについても『古事記』では悲劇性を前面に出したストーリーで読む人を引き付けるが、『日本書紀』では慈悲深い景行天皇と従順で勇敢な息子のヤマトタケルという関係性の話になっている。

ヤマトタケルのエピソードもそうだが、この時代の英雄譚は裏切り、暗殺、長兄の失脚を弟が拾う、というような話ばかりであり、すっきりしない。
私の大学時代は学生運動が過激化、退廃していく頃であった。革マル派や中核派など
グループ同士の確執も醜かったが、いわゆる国家権力側がさらにお互いをつぶし合わ
せるというような計略を弄していたのを目の当たりにした。
それと同じような状況がこの時代の『日本書紀』を読んでいるといたるところに出てくる。権力者がうまく立ち回り、そのようなだましあいつぶしあいばかりで暗澹たる気分になる。

そもそも前回も話したように、『日本書紀』は律令制による支配を強固なものにするため、天皇を神格化するのが大きな狙い。(もっともその後律令制度が弱体化し、仏教がそれにとって代わっていく流れとなるが)
しかし、この時に基礎が作られた律令制は現代まで脈々と生き続けている。制度だけでなく言葉についてもこの時代に基礎が作られてきた。それはすごいことだと思う。

奈良盆地には古代、大きな湖があったという、前回お話した説にもからむが、奈良盆地の周囲には多数の古墳が見つかっている。古墳はヤマト王権が作って全国に派生していったのではなく、実は地方で発生したものかもしれない。英雄譚で語られる九州勢力の東征などでヤマトに持ち込まれ、連合政権の各豪族がヤマトに集まった際に競い合ってつくったものではないか。三世紀から五世紀にかけ、奈良湖は縮小し田畑として開拓されていく。古墳は各勢力の象徴として、また開発地の土留めのような用途も兼ねて作られていったのではないかと想像できる。

■「遠祖」から導き出せる五大夫の子孫

古代史ビューア【麻呂】を使って分析を行うと様々な気づきがあるが、今日はその中の一つ「遠祖」を取り上げてみたい。「遠祖」については前回も紹介したが、『日本書紀』の中で出てくる家系が、当時のいろいろな一族の祖先であることをいたるところで紹介している際に使われる言葉だ。

検索すると神代を中心に全部で42回使われていることがわかる。
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一番最初は神代上7段に「中臣連」の遠祖について書かれており、一番最後は神功皇后の段での記述で終わっている。まさに遠い祖先のことを説明している。
それぞれをひとうひとつ見ていくといろいろな発見があるが、その中でも極めつけて意味深く面白い記述を紹介したい。
それは垂仁天皇二十五年2月8日の部分だ。【麻呂】で検索した画面は以下の通りとなる。この画面は強調表示に「垂仁二十五年」というグループを新規作成し、同一箇所に5回出現する「遠祖」にちなんだ名称を強調表示するように設定した。さらに新たに追加した機能により、この強調グループの語句群をそのままカスタム検索のグループとして作成してある。

ここに登場する一族は見覚えのある名前が並んでいる。

阿倍臣遠祖武渟川別。
和珥臣遠祖彦國。
中臣連遠祖大鹿嶋。
物部連遠祖十千根。
大伴連遠祖武日

「安倍」「中臣」「物部」「大伴」いずれもそうそうたる一族であり、『日本書紀』成立期の政権中枢の一族だ。しかし「和珥」(わに)は見覚えがない。今まで見てきた『古事記』『日本書紀』成立期の登場人物には見当たらない名前だ。ウィキペディアなどで調べてみると枝氏族の中に「粟田氏」の名前を発見する。「粟田真人」は『日本書紀』ができる1年前の719年に三位の中納言で亡くなっており、『日本書紀』成立期の政権中枢の人物ということがわかる。(しかも「粟田真人」も653年の遣唐使の一員であることはとても重要だ)

この部分をまとめたのが次の資料。

【資料3】資料紹介 日本古典文学大系『日本書紀』(岩波書店1988)
資料紹介 井上光貞監訳『日本書紀』(中央公論社1987)

岩波版『日本書紀』から原文、中央公論版の『日本書紀』から現代語訳を引用している。さらに、左上部分に五大夫の子孫の対応しているであろう人物を示している。

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阿倍臣遠祖武渟川別。 →阿部宿奈麻呂(平城遷都の長官、トップを務めた)
和珥臣遠祖彦國。 →粟田朝臣真人
中臣連遠祖大鹿嶋。 →藤原朝臣大嶋&不比等(「大嶋」は「不比等」以上に重要かもしれない)
物部連遠祖十千根。 →石上朝臣麻呂
大伴連遠祖武日。 →大伴朝臣安麻呂
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『日本書紀』編纂期の政権トップ5が表記されているに等しく、大きな意図がありそうに思える。つまり、国が作り始められたころのトップ5は今(『日本書紀』成立期)のトップ5と同じだと言っているようにとらえられる。

【資料4】ウィキペディア『阿部野宿奈麻呂』

五大夫の先頭に書かれている「阿部宿奈麻呂」についてウィキペディアの記事を紹介する。亡くなったのは720年であり『日本書紀』の成立年である。そういうことを示唆する形でトップに書かれている。編纂期のトップは石上麻呂であるが、ここに平城京建設の責任者だった「阿部」氏がトップに書かれているのは何か意味があると思われる。

【資料5】ウィキペディア『粟田真人』


次に書かれている「和珥」は「粟田真人」を示唆していると考えられる。とても重要な653年の遣唐使の一員として唐に渡り研鑽を積み、さらに半世紀後遣唐執節使として周に渡り、武則天に日本建国を伝えるという重要な役割を演じた。『日本書紀』成立の前年719年に亡くなっている。

次の「中臣連」は基本的には不比等ととらえられるが、もう一人踏まえておきたい人物がいる。

【資料5】ウィキペディア『中臣大島』

大嶋は不比等に先立って「中臣連」あるいは「藤原朝臣」の筆頭となった人物。
事績としては、天武期に『日本書紀』の編纂が始まった時に、そのメンバーの一人であり、かつ実際に執筆したということが記されている人物。つまり『日本書紀』の執筆者の確かなひとりである。
また、「藤原朝臣」と最初に名乗ったのはこの人物である可能性が高い。

■そしてさらに・・・

私の研究は710年前後のところを押さえたいというのが中心にある。なぜならば『古事記』ができたころの時代背景であり、『日本書紀』編纂期の頃の時代背景であるからである。それが崇神あるいは垂仁というヤマト朝廷ができたであろうところに「遠祖」という形で表現されていることを見てきた。

資料3で書いたように『日本書紀』編纂の目的は
①天皇を神格化させて権威を高め、中央官僚による人民支配の道具にする。
②各氏族の祖先を天皇家と関連付け、天皇に対する下級官僚や民衆の帰属性を高める。
ことにあるととらえている。それを裏付ける記述とも考えられる。

そしてもう一つ。五大夫の順番で「阿倍」「粟田」の順番になっていることを見逃せない。『日本書紀』の編纂を推し進めた勢力は「阿倍」「粟田」両氏だったのではないか。もし石上麻呂や藤原不比等が編纂の中心になっていたのであれば、五大夫の表記順は変わっていたはずだ。つまり『日本書紀』には、権力の変遷が祖先の表記として記述されている。

最終的に『日本書紀』の編纂を主導したのは石上麻呂、藤原不比等の後継者の人たちだった。石上麻呂、不比等が亡くなる前後の時代、当時の政治的権力は後継者に移りかけていた。不比等が亡くなる頃には、求心力を失った政権内で権力闘争が始まった。その直前の状況が『日本書紀』の記述に現れているとみることもできる。当時の権力者たちの自己証明的な色合いが、『日本書紀』に記された先祖伝承等に含まれていると思う。

『日本書紀』成立時には不比等は存命であったにもかかわらず、五大夫の順番が3番目になっていることから、かなり健康を崩して第一線を退いていた可能性も見えてくる。この後、長屋王の変から律令国家日本(ヤマト)の崩壊に至るという、私の古代日本(ヤマト)観の裏付けともなる『日本書紀』の記述と考える。

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