『日本書紀』を読む(1)神々の物語と邪馬台国

見附市学びの駅ふぁみりあでシリーズ開催されている「古代日本史講座」。
17期の『日本書紀』成立1300年!その謎を解くシリーズ。今回はその第3回「『日本書紀』を読む(1)神々の物語と邪馬台国」と題して、『日本書紀』に描かれている神話の概観と邪馬台国をめぐるいくつかのアプローチやトピックスを紹介する。
※以下「私」と記述している部分は関根先生のことを指しています。

■日本神話の概観

日本神話は『古事記』と『日本書紀』が合わさった形で明治時代の頃から言われるようになった。そもそも「神話」という言葉は明治時代あたりから使われ始めており、古い日本語ではない。
したがって、語っていることはいつかわからないような日本の大昔の内容だが、「神話」という言葉自体も新しいし、現在知られている日本神話は本居宣長が『古事記』を読みやすくして出版してから広まった内容なので、200年ほどの歴史しかない。

見附市に名木野という地域があるが、ヤマタノオロチ伝説が伝わっていて、現在でも名木野小学校では「草薙龍」という児童劇を行っている。日本神話はそんな身近な存在にもなってきている。

【資料1】資料紹介 Aera Mook 『日本神話がわかる。』(朝日新聞社2001)

冒頭に「日本神話はシンフォニーだ。」というコピーを大きく掲げているように、新鮮な視線で編集されている。世界には様々な神話が伝えられているが、本質的に似通っているところがあり日本神話も例外ではない、というような視線をもって編集されている。
目次を引用してあるが、代表的な7人の登場人物についてや文化・芸術などの各分野から見たエッセイなどでなかなかよくまとめられている。

しかし本講座では、こういう内容については取り上げない。また一般的な日本神話についても取り上げない。そういう本は沢山でている。本日もミニ古本市に関連図書を持ってきているので、興味のありそうなものを一冊読んでくれれば十分だと思う。

■『日本書紀』の原典をあたる

歴史の研究で一番大切なのは、研究資料の原典を自分自身の眼で読むこと。
原典をあたりたい、研究したいという場合は、前回紹介した岩波文庫版『日本書紀』がよいと思う。
本格的に研究するなら、写本(影印)などで内容確認する必要がある。

本日は、私が所蔵している古写本を紹介したい。実物も持参している。

【資料2】『日本書紀』 古写本 関根 聡所蔵

江戸時代に写本されたものと思われる。本文の余白には自分で研究したと思われる書き込みがびっしりと書き込まれている。
以前、ネットで売りに出されているものを手に入れたのだが、京都の神社で見つかったものとのこと。書き込みに本居宣長などの名前が出てこないので、おそらく1600年代の半ばから江戸時代中期にかけてのものだと思われる。
資料に紹介したのは第一巻 第一段一書第二~六の部分であるが、その部分を古代史ビューア【麻呂】で見てみる。


【麻呂】の基本機能として登録文字の強調表示がある。強調したい語句を複数登録できるが、さらにそのグループをひとまとまりとして複数のグループを作ることができ、簡単にグループを切り替えることができる。さらに強調語句一覧の横にはテキスト中に該当する箇所の件数が表示される。
神代記のこの部分(巻第一の第一~第四段)に登場する神の名前をすべて強調表示に登録してみると面白いことがわかる。伊弉諾尊(イザナギ)と伊弉冊尊(イザナミ)を除いて、ほとんどの神が三段までに1回または2・3回しか登場せず、しかも四段以降には登場しない。三段までと四段以降の間には長い時間が存在することがわかる。

また、ここに登場する神様の中で「天御中主尊」(アメノミナカヌシ)は、古事記では一番最初に登場する神であり重要である。『日本書紀』では登場する神々の中に埋もれてはいるが「高天原」という言葉とともに出てくるように位置づけは古事記と一致している。
そのことより次のようなことが言える。『日本書紀』に書いてある「一書曰」(いっしょいわく)は「違う資料にはこのように書かれている」という意味だが、その中に『古事記』と同じ伝承が含まれている。つまり『日本書紀』の編纂時、『古事記』と同じ伝承を入れなければならなかった事情があった。『古事記』編纂の中心になった豪族グループの人たちが、『日本書紀』編纂時に政治的な力を持っていたということだと思う。
「一書曰」で始まる三段までの記述とイザナギ、イザナミの物語が始まる四段との間には、こんなところからも大きな時間的溝があることがうかがえる。

次に五段から八段までに登場する神の名前を登録した強調表示グループに切り替えてみる。

こちらもたくさんの神様が登場するが、この五段から八段の部分にのみ登場し、それ以前にも以後にもほとんど登場しないことがわかる。つまり、ここでも時代が違うということが明らか。

以上より、『日本書紀』に書かれている神様のことを考えるとき、最初に多くの神々が出てくる時代、次にイザナギ・イザナミが活躍してから、さらに五段以降の神様たちというのはまた違った形で動き始めていることがわかる。スサノオなどはこの時に出てくる。
つまり、そういうことを無視して同系列に扱うべきではないのではないか。きちんと時代なり背景なりを踏まえて語るべきではないかと考える。

私は神話を扱うときも日本の歴史としていつ誰がどこで何をしたか(5W1H)ということを踏まえて語るべきだという立場をとっている。一般的な神話の取り上げ方をこの講座では扱わないのはそのような理由からである。

神話の部分については本日ここまでにするが、今後この講座では2020年の『日本書紀』成立1300年に向けて部分部分を掘り下げていく予定なのでまた取り上げることになると思う。そして、テレビや書籍など多くのメディアでも1300年に向けて『日本書紀』が取り上げられることが増えていくと思うので、それらと比較してもらえると面白いと思う。

■『日本書紀』と邪馬台国

邪馬台国があったのは3世紀頃であり、『古事記』や『日本書紀』の神話の最後あたりに近い時代である。「邪馬台国」「卑弥呼」は中国の『魏志倭人伝』に登場している。『日本書紀』の中に「邪馬台国」や「卑弥呼」が出てきてもよさそうだが、実際は登場してこない。しかし古代史ビューア【麻呂】で『日本書紀』を「魏志」で検索すると、神功皇后摂政三九年(己未239)条等に「魏志」が検出される。そこに記される明帝景初は、西暦の239年~243年。ちょうど邪馬台国の時代になる。『日本書紀』の述作者が『魏志』を読んでいたことは明らかで、「邪馬台国」や「卑弥呼」の記述も知っていたはずである。

では、なぜ「邪馬台国」「卑弥呼」は書かれなかったのか。
「邪馬台国」「卑弥呼」に対する態度が神話部分に対する態度に反映されているのではないか。つまり知っていてもあえて無視していると考えられる。歴史書(特に政治家が主導したもの)は自分の都合のいいように書き、都合の悪いものは書き表さない。(詳しくは後程触れる)

■『まぼろしの邪馬台国』

邪馬台国が日本でさかんに話されるようになったのは江戸時代からで、300年くらいの歴史があり、いろんな説が出ている。
本日はそのうちいくつかを取り上げるが、古田武彦説は取り上げない。その古田氏と大論争を繰り広げたのが安本美典氏で、以前は私もかなり影響を受けていた時期があったが、最近は距離を置くようになった。その二人による論争も今日は取り上げない。

本日取り上げるのはまず宮崎康平氏。

【資料3】資料紹介 宮崎康平『まぼろしの邪馬台国』第2部(講談社2008)

九州の有明海に生まれ育ち、そこの鉄道会社を運営された経歴の持ち主であるが、失明され、奥様と一緒に邪馬台国研究の活動をされた。その姿は奥様役を吉永小百合が演じて10年ほど前に映画になったのでご存知の方も多いと思う。
この方の研究では邪馬台国は結果的に自分の故郷の有明地方にあったという結論にたどりついた。そもそも早稲田大学で津田左右吉に学んだこともあり、ただ単に古代史に没頭したということでなく、冷徹に物事を見つめる目も持っていた。ただ50年前の論調なので、邪馬台国論争は地域主義に陥る傾向があり、そういう要素も含んでいることは否めない。
しかし、古代史に生涯をささげた一人の人間としての存在は魅力的であり、文学を目指していたということもあり、読んでいて楽しい本。

■『邪馬壹国は新潟県であった!』

新潟で邪馬台国を語る上では外せないのが桐生源一氏。

【資料4】資料紹介 桐生源一『邪馬壹国は新潟県であった!』(玉源書店1985)

『魏志倭人伝』の写本によっては「邪馬台国」ではなく「邪馬壹国」と書かれているものがあり、桐生氏は「邪馬壹国」説をとる。しかも「やまいつこく」と発音し、越後は古くから「え」と「い」の発音が逆になることが多く「やまえつこく」→「山越国」であったとする。

この本のP16に掲載されている「邪馬壹国比定地」の図を資料に引用した。これをみると山間部が多いことがわかる。また、フィリピンやスマトラを含めて各地にちらばっている。そういうところは「徐福」の伝説に似ている。このように各地で伝説的に語られるというのは、伝説の元になった種本の記述があり、それを自分の地域の話に持ってくるという形が多い。

桐生氏の主張は、邪馬壹国は栃尾にあって、そこの女王が卑弥呼である、ということだ。さらに、古代中国の百越の人々が世界中に渡り100以上の国を作り、栃尾の山越国もそのひとつと主張している。これは以前の講座で私が徐福の話をしたときに、日本人と百越との関わりについて述べた内容と通じるところがあり、一部共感するところがある。紀元前の日本には、秦から渡来した百越の女性を祖とする人々が各地に住んでいたと思う。

■松本清張の主張 邪馬台国の位置は? 1990年頃の学説と風潮

【資料5】資料紹介 松本清張『吉野ヶ里と邪馬台国』(NHK出版1993)

さきほどの桐生氏の本で紹介されていた「邪馬壹国比定地」と同じ位置づけのまとめがこの松本清張氏の本に載っているので資料に引用した。各説について、簡潔にかつ具体的にまとめられており、作家、古代史研究家として松本氏の力量が感じられる。
松本氏の立場は、「邪馬台国は九州北半部のどこかであったらしい」としているが、「今後よほどの物的証拠があがらないかぎり、わかりようもない。」とも記している。

私もそう思う。そもそも「邪馬台国」については古代中国で魏の史家がそう言ったという記録であり、そんな名前の国は古代日本になかったと思う。自分を馬鹿にするような名前を自分で名乗ることはない。中国の人が勝手にそう呼んだ名前であり、『日本書紀』に載せなかったのは当然だと思う。ただ中国の人が「邪馬台国」と呼んだ国があったのは九州北半部のどこかだったという松本清張氏の主張には同感である。

■邪馬台国の謎を解くカギを握る『魏志』倭人伝

【資料6】資料紹介 別冊宝島2465『邪馬台国とはなにか』(宝島社2016)

この資料では最近古代史関係でよい本を出している宝島社の2016年発行のムック『邪馬台国とはなにか』を紹介している。
この本の素晴らしいところは、邪馬台国のいろいろな説について、その人たちに直接書いてもらったりインタビューをしたりして紹介しているところ。

その中で武光誠氏の説を紹介したい。武満氏が言われるように邪馬台国のカギを握るのは『魏志』倭人伝である。
『魏志』倭人伝を研究する場合は岩波文庫版『魏志倭人伝』がよい。訳文や解説に加え、原文(印影)も掲載されているので、これ1冊あれば研究を始めることができる。魏志倭人伝については、このムックと岩波版があれば十分かもしれない。

魏志倭人伝について近年明らかになっていたことは、正確な記述といい加減な記述とごちゃまぜになっているということ。その部分を見極めないと研究の方向が誤ってしまう。
武光誠氏が書かれているのは、日本の女帝が魏の国に使いを送り、それに対して金印が贈られたのは事実だろうということ。つまり「邪馬台国」と呼ばれた国が日本にあったのは間違いないだろうし、女王がいたということも事実だろう、ということである。逆にいい加減に書かれていることは何かというと、国の名前や距離だという。したがって昔、距離の記述から邪馬台国やその他の国々の位置を探るというような論考が流行ったことがあるが、それらは意味がない—この本を読むとそう感じる。

要は歴史書であるので、本当のこともあれば嘘のことも書かれている。それらを見極めていくことが歴史研究であると私は考えている。この本でも武光誠氏を含めて複数の方がそういう見方をされている。
おもしろいのは、そのように魏志倭人伝に対するスタンスが同じにもかかわらず、結論が分かれているということ。武光氏は九州説をとっているが、他の方は近畿説となっている。

■よそ者「卑弥呼」がヤマト政権のもととなった?

最近武村公太郎という方が、地形から歴史を読み解くという見方を提案されている。

【資料7】資料紹介 武村公太郎の「地形から読み解く」日本史(宝島社2015)

ここに引用した内容は、現在の奈良の中心部に巨大な湖があったとする説である。
藤原京と平城京の間はほとんど湖だったという。その根拠は、地形がそのようになっていることはもちろんだが、豪族たちがその周囲に分布していることからも言える。

もともと湖になったのは地殻変動などの災害により大阪湾に流れ込む部分が埋まって水がたまったものと考えられるし、その後湖が縮小していくのも災害により水が流出していったものと思われる。

奈良という土地がこういう場所だったという認識があるかないかで歴史の見方が変わる。邪馬台国が近畿にあったとすれば、いま橿原と呼ばれている付近で、奈良湖に面していた地域にあったと考えられる。湖周辺にいた豪族たちは、湖の縮小にともない土地を開墾していき、勢力を伸ばしていったのだろう。

卑弥呼の時代を探るにはこのような認識を踏まえるべきだと考える。

どうして奈良が古代の中枢になっていったかということについて、地理的な条件で考えてみたい。たとえば新潟県の上越市。武士の町である高田と漁師の町である直江津と一緒になって上越市ができたわけだが、現在の市役所のあるあたりは以前は誰も近寄らないような土地だった。しかし、両地区の中間点ということで現在は上越市でもっともにぎわっている地域になっている。同じようなことが三条市と燕市の間でも言える。新幹線や高速道路が両市の中間を拠点とし、現在ではたくさんの人たちが集まる場所になっている。

奈良はどうだろう。山に囲まれぱっとしないような土地条件だが、東からも西(九州)からも、日本海側からも行きやすい。倭国の大乱後、ばらばらだった日本がまとまっていく時期に、奈良湖の水が抜けていった。人為的に水を抜こうという動きがあったのかもしれない。交流の拠点が次第に繁栄し、ヤマト政権の元になっていったと思われる。

その初期段階ではよそ者が牛耳っており、その象徴が九州からやってきた卑弥呼と呼ばれる女帝だったのではないか。当時の有力な豪族は、近畿ではなく関東と九州にいたと私は考えている。
しかし、それは後世の政権にとっては認めたくない事実であり、それゆえ『日本書紀』に卑弥呼の存在を記載しなかったのではないだろうか。

■新潟にもあった倭国大乱時の痕跡

【資料8】資料紹介 『長岡・柏崎の歴史』(郷土出版社1998)

本書の序文に「大宝二年(702)には、越中国から頚城・古志・魚沼・蒲原の四郡が越後国に編入されて、越後国ができあがった。この古代の古志郡に包括される範囲が、本書の対象とする区域である。」と記されている。古代の「倭国大乱」時に防御機能をもったムラが新潟平野の信濃川流域に集中するということを表した地図が掲載されており、資料に引用した。九州や瀬戸内・近畿に頻発したとされる倭国大乱であるが、北陸地方を経由して古代古志郡にも余波が伝わっていたことがわかる。

本書で広井造氏が書かれているが、この本を作った当時、このようなムラの遺跡は東山丘陵周辺で見つかっていることに触れ次のように結んでいる。
「信濃川の流域はムラを構えるには不便な反乱地帯だったが、西山丘陵は文化の受け入れ口として大きな役割を果たした日本海に近く土地も安定していたので、今後新しい弥生のムラが見つかる可能性が高い。」

本日の講座の最後にそれが実現した話題をお伝えする。
次のYouTubeの動画を見ていただきたい。

柏崎の西岩野というところで弥生時代の大型掘立柱建築物が発掘されたという話題。さらにその周囲にある墓の跡や勾玉やガラス玉などから、ここには巫女が埋葬されていたと考えられるという。

私自身は邪馬台国は九州にあったと感じているが、全国的に「日巫女」(ひみこ)と呼ばれる人が存在していたと考えている。古志地方にあったのが、今回見つかった西岩野遺跡と考えると面白い。
日本という国は女性が政治の補佐をするというしくみが、それこそ神話の時代からあったと考えているが、それを裏付けるものがこの近くで見つかったというのはうれしい。

【資料9】西岩野遺跡現地説明会 参加報告

■本日のまとめ

古代中国の魏で「邪馬台国」と呼ばれた国は、九州にあったのではないかと思う。倭国大乱を治めるとき、各地の首長たちが古代奈良湖のほとり(纏向辺り)に集まって代表を決めた、その代表が「卑弥呼」だったのではないか。
つまり、「卑弥呼」はもともと九州の首長だったが、集まった奈良湖のほとりで連合政権的な代表に選ばれたということである。以降、そこに留まっていたのか、九州に帰ったのかは判断できない。
『日本書紀』は、「卑弥呼」を一人の人物として書くのではなく、何人かの人物として誤魔化して書いているという気がする。

■磤馭慮(オノゴロ)島地図を復元

【資料10】越後通信(2012年6月5日号)より「淤能碁呂嶋図」

『古事記』では「淤能碁呂嶋」、『日本書紀』では「磤馭慮島」と記されている神代の日本。その地図を復元したのがこの資料。
古代日本において方位の基準は南であり、南を上に地図を描くなど、私の研究成果がいろいろと反映されている。今後、神話の時代や古代日本を考察する際、是非活用していただきたい。

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