ドラマ「春になったら」と映画「生きる」を観て感じたこと

1月から3月までフジテレビ系列で放送されていたドラマ「春になったら」を観ていました。

癌の末期と知らされ、延命治療を選ばず、残された時間を充実させて生きることを選んだ父親(木梨憲武)と、最初は反発するもしだいに父親の選択を受け入れていく娘(奈緒)が織りなすドラマです。

「生きる」は黒澤明監督が、私の生まれる3年前に制作した名作。NHK-BSのお昼の映画枠で1月に放送されたものを録画しておいたのですが、3か月たってやっと観ました。

長年公務員として事なかれの仕事をしてきた主人公(志村喬)が胃がんであることがわかり、今まで大切にしてきたことがいったいなんだったのかと思い悩みます。その反動で享楽の時間を過ごしたり部下だった若い女性(小田切みき)とも時間を過ごすうちに、突然「覚醒」するのです。映画の後半はお通夜の席で役所の職員たちが主人公のことを回顧していくうちに、その生きざまが明らかになり、公園のブランコで死亡した主人公の幸せを確信します。


両方のストーリーに共通していたのは、余命を知った人間の生き方です。自分に接してくれた人たちに感謝し、やり残したことを精一杯行い、自分がこの世に生を受けた証を残すかのような行動をとるのです。

これにはとても共感しました。例え明日死んだとしても悔いの残らないように今日を精一杯生きようと思いました。


余談ですが、現代のドラマと70年前の映画を比較して面白い違いに気づきました。

「生きる」では主人公が検査の結果を医師から聞くのですが「軽い胃潰瘍です。暴飲暴食をしなければ好きなものを食べてもいい。」と伝えられます。それでも本人はかなり進んだ胃がんだと確信するのです。

一方「春になったら」では主人公が医師から事実を直接伝えられ、家族よりも早く余命が短いことを知ります。自分から家族にそれを伝えるという展開でした。

70年で大きな違いですね。

コメント