『日本書紀』律令国家「日本」誕生に係る人物を追う(1)吉士長丹と定惠

見附市学びの駅ふぁみりあでシリーズ開催されている「古代日本史講座」。
18期の『日本書紀』成立1300年!その謎を解くシリーズ。今回はその第1回「吉士長丹と定惠 律令国家「日本」建国に、大きな役割を果たした第二回遣唐使(653)の実像。」と題して、第二回遣唐使の謎に迫ります。
※以下「私」と記述している部分は関根先生のことを指しています。

■第二回遣唐使

【資料1】吉士長丹と定惠(定恵)

吉士長丹(きしながに)又は(きしちょうたん)
定惠(じょうえ)または(じょうけい)

この二人を取り上げたのは白雉四年(653)の第二回遣唐使の重要な参加者であるからである。吉士長丹は責任者である大唐大使。定惠は学問僧の中に名を連ねている。

古代史ビューア【麻呂】でその部分を見てみる。

この資料はこの部分をPhotoshopに読み込んでわかりやすいように装丁、解説を加えたもの。

ここに記載されている人たちは後の「日本」を生み出す原動力になった人が数多く含まれている。今まで注目されてこなかったが、この講座ではここにスポットを当てることにより、謎を解き明かしてゆきたい。

■名だたる学問僧たち

まず定惠。次の注が書いてある。

【定惠。内大臣之長子也。】

内大臣の長子であるということだが、内大臣とは中臣鎌足であり、その長男が学問僧として加わっていることは注目に値する。

次に安達。

【安達。中臣渠毎連之子。】

このように注が書いてあり、調べると後の中臣連大嶋であることがわかる。さらにその後藤原姓を名乗る初めての人であることもわかる。つまり元祖藤原ともいえる人物だ。さらに『日本書紀』の記述を追っていくと、『日本書紀』編纂の主要なメンバーであることがわかる。

次に道灌。

【道觀。春日粟田臣百濟之子。】

このように注が書いてある。「粟田臣百濟之子」で日本書紀を検索すると粟田真人であることがわかる。

なお、天武十年(681)にこの粟田真人、中臣連大嶋、さらに後の石上麻呂である物部連麻呂が並んで登場する箇所があり、注目に値する。

さらに「或本」に続き坂合部連磐積の名前が登場する。この人物は後に境部連石積として日本で最初の辞書「新字」の編纂を行う人物である。

■「吉士」について

「吉士」について出自を探るべく『日本書紀』をさかのぼって検索すると、「難波吉士」「坂本吉士」「草壁吉士」など多数ヒットする。「吉士」という言葉を調べてみるともともと中国の官職であったようだが、『日本書紀』では渡来した人に付ける言葉だったようだ。つまり「難波吉士」とは難波にいた渡来者あるいは帰化人というような意味合い。

しかし、653年の吉士長丹から姓として用いられる例が増えている。(理由はまだ不明)
そういう観点から653年の記述には何かあるのではないかと想像する。(今後の課題)

■「吐火羅國」について

「吉士」を検索していると見慣れない言葉が目にはいてきた。654年の記述。

吐火羅國男二人。女二人。舍衛女一人。被風流來于日向。

「吐火羅國」を調べてみると当時、中央アジアに栄えていたイスラム教国家「トハラ」のことである。飛鳥時代の鼻がとんがったエキゾチックなお面などが出てきているが中央アジアの雰囲気を感じる。トカラ列島の名前も関係あるのだろうか。渡来人を指す「吉士」のすぐ近くに「吐火羅國」から流れてきた男女の記述が載っており、当時の海外との関係を想像させられる。

■「定惠」について

【資料2】藤氏家伝(定恵伝)

760年頃に書かれたと言われる「藤氏家伝」は藤原家の家伝が集められている。
ただ、不比等やその息子の宇合(うまかい)については入っていない。当初はあったのではないかと言われているが、逆に言えば残されなかったというところに、あやしさを感じる。平城遷都あたりのことは隠したいという意図があったのでhないか。不比等には謎が多いのは石上麻呂との関係によるものではないかと思う。

定惠については日本にいたのは10才までの10年間と唐から帰ってきてからの半年のみである。この伝記の三分の一は恵美押勝(藤原仲麻呂)が書いたと言われている。

資料には抜粋して年表として整理してあるが、私が気になるところを朱書きしてある。
遣唐使として長安に行った後665年に日本に帰ってくるが、百済から帰ってきたと書いてある。この頃は百済は滅びているのでこれはありえない。

「廓武宗劉徳高」と書かれている箇所があるが、廓武宗(『日本書紀』では「郭武宗」)を「劉徳高」の上位に置く記述も興味深い。郭武宗が果たした歴史的役割の大きさ(藤原氏にとって)をうかがわせる。

次には百済から来た人間に才能をねたまれて毒殺されたと書いてある。
私は才能をねたまれて毒殺されたのではないと考える。百済が滅ぼされたのは660年に唐と新羅の連合軍によってであり、そのために白村江の戦いに出かけて大敗し、日本は大打撃を受ける。そんな中、郭武宗が来て、壬申の乱が始まるということになる。
10歳で唐に渡り12年間学んだら等の人間になってしまうのではないか。しかも帰国するときに新羅を通ってきており、文武王が中臣鎌足の息子を素通りさせるということはないと思う。何かしらの歓待をしたのではないか。これは百済人にとったらあまりいい状況ではないはず。才能をねたんだのではなく、唐かぶれしてさらに百済を滅ぼした新羅の文武王と仲がよく鼻持ちならないと思って殺した可能性が大きい。

■定惠はなぜ殺されたのか

【資料3】資料紹介 岩下壽之『定恵、百済人に毒殺される』

この本の題名はミステリー風であるが小説である。

書き出しは、定恵は人質として唐に渡ったという記述から始まり、結論は「定恵を暗殺したのは百済人ではなかった」と、本のタイトルを否定して終わる。では誰が殺したのかというと、実は中大兄(天智天皇)だったというのである。しかも中大兄が噂を立てて百済人のせいにしたというのだ。

なぜ人質だったのかというと、定惠は孝徳天皇の隠し子という経緯からという説がある。(不比等は天智天皇の隠し子で鎌足が預かったという説もある)

これは説としては大変興味深い。今までは百済人暗殺説を考えてきたが、中大兄説も視野に入れて今後分析してみたい。

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