PC遍歴、クルマ遍歴に続き、遍歴シリーズ第3弾として私の音楽遍歴を書こうと思います。
私の人生において「音楽」とは
現在も変わりませんが、私は子供のころからおとなしく、大勢の中で自分を出すことが大の苦手でした。運動もからきしダメだったので、スポーツでみんなと一緒に楽しむということからも遠のきました。
そんな私がみんなの輪に入れるようになったのは「音楽」という存在があったからです。
いろいろな音楽を聴くことももちろん大好きですが、「音楽を演奏する」ということが大きく私の人生の支えになってきました。
そんな「音楽」とどうかかわって生きてきたのか振り返ってみたいと思います。
小学校での鼓笛隊とリコーダー ~10歳~
名木野小学校の時、5年生になると鼓笛隊に参加することになっていました。どの楽器がいいか希望をとられ、私は指揮(先頭を歩きながら長い棒を上下に振るあれです)を希望しました。どうして希望したか忘れましたが。指揮を希望したのは私を含めて二人でした。簡単なオーディションのようなものが行われ、クラスのみんなの前で指揮棒をもって立たされたのです。その姿勢がお腹を大きく前に突き出し、極端な海老ぞり姿勢のようだったようです。
結果はもう一人の希望者が指揮をやることになり、私は(経緯を忘れましたが)中太鼓を担当。スネアドラムを縦に長くし、ティンパニーのバチのようなものでたたきます。練習は楽しかったのを覚えています。
また、音楽の時間にはリコーダーを練習しました。アルルの女のファランドールのメロディーを練習し、先生から指名されて一人で演奏しとても褒められたといういい思い出があります。
これらの中太鼓とリコーダー体験が私の音楽原体験かもしれません。音楽は楽しいのだという。
中学校のブラスバンドでチューバとの出会い ~13歳~
見附中学校に上がり部活の希望が取られ、第1希望を科学部、第2希望をブラスバンド部として提出しました。担任の先生に呼ばれて「ブラスバンド部を希望しているのはお前しかいないから、入らないか」と打診されました。その先生はブラスバンド部の顧問でもなんでもなかったのですが、その一言で私のこれからの音楽との生活が本格化することになります。
ブラスバンド部に入りチューバを担当。正確には中バスと呼ばれた楽器。オーケストラで使うチューバは吹奏楽ではその頃「バス」と呼ばれていました。中バスはその中でもE♭の調整のチューバの仲間でした。一般的に言うB♭チューバとB♭ユーフォニアムの中間の位置づけでしょうか。
楽譜はヘ音記号で書いてありましたが、すぐに読めないのでカタカナでドとかソとか書き込んで練習しました。
器楽部そして浅井先生との出会い ~13歳~
見附中学校には演奏系の部活動が二つあり、私が入ったブラスバンド部の他に器楽部という部もありました。あ、いい方が逆でした。器楽部はコンクールでもいつも上位入賞するような優秀な団体で、そのほかにブラスバンド部もあったといった方が正しいです。
その器楽部を率いていたのが浅井先生という方。器楽部の編成はオーケストラのバイオリンの代わりをピアニカ、アコーディオンなどの楽器が担当するという編成です。取り組んでいたのがオーケストラ曲を編曲したものになるので、管楽器を充実させたいということで、コンクール用の特別編成でブラスバンド部員が応援参加していました。
浅井先生は、同じ中学校に同様な団体が二つあるのは不自然とのことを主張されたのです。その結果、ブラスバンド部は器楽部に統合され、私も器楽部所属になりました。
ここでたくさんの曲を演奏しました。
一年生の時はレスピーギのローマの松から「アッピア街道の松」。TBS主催の子供音楽コンクールに出場し、東京虎ノ門ホールで開かれた東日本決勝大会に進み、優秀賞を受賞。
二年生の時はムソルグスキーの交響詩「禿山の一夜」を演奏。この時の思い出がこのブログのタイトルになっています。
三年生の時は同じくムソルグスキーの組曲展覧会の絵から「キエフの大門」を演奏しました。
そのほかにもスッペの序曲「詩人と農夫」、シューベルトの交響曲第8番「未完成」、ベートーベンの交響曲第5番「運命」など、いろいろと練習しました。クラシック音楽との出会いは器楽部時代に生まれ育ったのだと思います。
また、この時の器楽部での活動を通じて知り合った仲間たちや先輩たちなど、今でもつながりを持てているのはうれしいです。
私が在学中の演奏は手元にないので、1年前の先輩方の演奏がTBSラジオで放送された録音を少しだけお聴きください。「禿山の一夜」です。
高校での吹奏楽部 ~15歳~
見附高校に進学し、部活動は迷わず吹奏楽部にしました。指導者は須佐先生という方。強い力でみんなを引っ張ていってくれました。
楽器は1年と2年の時はユーフォニアムを、3年はチューバを担当しました。吹奏楽用に書かれた曲、オーケストラ曲から吹奏楽用意アレンジした曲、マーチ、ポピュラー音楽をアレンジしたものなど、たくさんの曲を練習しました。夏の合宿、コンクール、秋の定期演奏会などを軸に活動し、すごくエネルギッシュだったと思います。
そういえば、私の一つ上の先輩から3つ下の学年までそれぞれ一人ずつ集まり「五人会」という名前で年に数回懇親会をやったり旅行に行ったりしています。これは現在も続いている息の長いおつきあいです。これも音楽あってこそのつきあい。
当時の録音をちょっとだけ。一年生の時に吹奏楽コンクール新潟県大会で演奏した課題曲「音楽祭のプレリュード」冒頭の部分です。
東京音楽アカデミーでクラシックギターと出会う ~16歳~
高校2年の時に、合奏だけでなく一人で楽しめる音楽をしたいと思い。東京音楽アカデミーという音楽教材でクラシックギターを始めました。
この教材の話は以前に書きましたので下記を参照ください。
このクラシックギターは社会人になってからも私の傍らにずっといてくれた存在になります。
大学でビッグバンドに参加 ~18歳~
日本大学生産工学部に進学し、船橋市でアパート暮らしを始めました。サークル活動として選んだのがビッグバンド「ブルースイングオーケストラ」です。楽器演奏系のサークルはこれだけだったような記憶があります。ここで担当したのがバストロンボーン。低音系の金管楽器の経験があったのでやってみたのですが、私にはジャズ三昧の毎日の練習は受け入れられなかったようです。一年間活動した後に退部しました。
竹橋の共立講堂で行われた大学ビッグバンドフェスティバルでの演奏から、バンドのテーマ曲冒頭を。
地元で就職中の音楽活動 ~22歳~
大学を卒業し、地元の繊維関係の企業に就職しました。実は1年半の後に電電公社に転職し、上京するのですが、その短い間にいくつか音楽活動をしていました。
中学の時の浅井先生に教わった人たちが中心になり見附市にオーケストラ活動が始まり、私もその時にバイオリンの一員として参加したことがあります。また、高校の時の仲間で集まって管楽アンサンブルみたいなことをやったりもしました。
当時の写真を探っていたところ、自宅の部屋の写真が出てきました。
レコードプレイヤーやオープンリールテープデッキ、FMチューナー、自作のアンプ、自作のスピーカーなどのオーディオ装置が並んでいます。懐かしい。
横浜ギタースクール ~24歳~
地元の企業を1年半で離れ、電電公社に入社。横浜の独身寮に入りました。そこでギターを本格的に習おうと門をたたいたのが横浜ギタースクールです。横浜駅のほど近くにあり、主に土曜に通いました。
山口昭三先生を始め、若い先生も含めいろいろなギタリストの方と交流することができ、とても楽しい時期でした。
その時一緒に習っていた川瀬のり子さんは現在もギター教室を主宰しており、そのホームページを私が担当するというお付き合いが続いています。
5年ほど在籍していましたが、最後に卒業コンサートということで、港の見える丘公園にあるイギリス館という建物で50人ほどのお客様を前に演奏する機会をいただきました。見附からわざわざ聴きに来てくれた友だちもいたし、新聞に出た告知を見ていらしてくれた方もいらっしゃったり、決してうまい演奏ではなかったですが、良い一夜でした。
横浜の独身寮にいた頃、レッスンとは別に楽しみで練習した「雨にぬれても」の録音テープが残っていました。
電電公社中央学園ギター部 ~26歳~
横浜の独身寮には2年半ほどいたのですが、企業内学園の中央電気通信学園で2年間勉強できることになり、調布市の学園内にある寮での生活が始まりました。2年間在籍し、教養課程から通信の専門課程までさまざまな勉強をしました。
学園生活ではサークル活動が推奨されていて、私は陸上部、ギター部、音楽鑑賞部と3つのサークルに所属。
ギター部では2年生の時に部長をやらせていただきました。練習時にコーチとして来ていただいたのが横浜のギタリストの宇賀神先生だったこともあり、とても楽しい充実したギター生活だったと思います。
新潟市でギター活動再開 ~40歳~
30代の10年間は時折ギターは弾いていたものの、レッスンを受けるということはありませんでした。再開したのが新潟市でマンションを購入した40歳の時です。
ヤマハ新潟店がまだ万代シティーのダイエーの隣にあった頃、そこの音楽教室のクラシックギターコースに申し込みました。菅井先生という熱心な先生に習うことができ、新潟県ギタリストオーディションにも合格し、第四ホールで演奏するという機会も得ました。
しかし、弾いていると中指が曲がってくるという症状が発生。たぶん腱鞘炎とのことでしたが、クラシックギターから離れることとしました。
そこで、親指だけで弾けるウクレレを購入。しばらく練習しましたが長くは続きませんでした。
マンションの自宅でオーディションに向けて練習している頃の写真がありました。
退職を機に銀座ヤマハピアノを始める ~52歳~
NTTを52歳で退社しました。それを契機にピアノを始めようと思い立ちます。腱鞘炎もピアノならなんとかカバーできるのではないか。ギターで表現できなかった世界をピアノで表現したい。今までの人生で聴いてきたいろいろな音楽を自分の手で表現したい。そんな気持ちで始めました。ただ、テクニックがないのはギターで身をもって感じていたので、クラシックピアノではなく、さまざまな曲のアレンジものを取り組もうと方針を立てます。
ちょうどその頃東京新聞の記事に退職後に大人のピアノ教室を楽しんでいるという方の記事が出ていて、それが銀座ヤマハの音楽教室。そこで習うことにしました。遠藤先生はジャズがお好きということで、レッスン曲もジャズスタンダードが多くなりました。
また、発表会は遠藤先生のレッスン生がクリスマスにスタジオに集まり、ケーキとお茶を楽しみながらお互いの演奏を聴き合うという楽しい催しでした。
この時から練習した曲をYouTubeに投稿するようになりました。習い始めたばかりの頃、ジャズのスタンダードを何曲か演奏し、それをオムニバス形式で編集した動画(音声のみなのですが)が私の再生回数トップなのは皮肉でしょうか。
尚美ミュージックカレッジでピアノレッスン ~57歳~
銀座ヤマハで5年ほど習っていたのですが、その後少しの休止を挟み、次は文京区春日交差点に位置する尚美ミュージックカレッジのエグゼクティブレッスンに入りました。今度は武正先生というクラシックピアノの先生で、ポピュラー系統以外にもクラシック曲のアレンジなども練習。この時の一番の思い出は、ワグナーの「エルザの大聖堂への行列」という吹奏楽ピースとしておなじみの曲を自分でピアノにアレンジして練習できたことです。
カワイ音楽教室でピアノレッスン ~61歳~
見附に帰ってきて落ち着いたところであらためてレッスンを受けようと思い立ちました。このあたりでポピュラーピアノを教えてくださる先生はなかなか見つけることができず、結局カワイ音楽教室に相談したところ、見附市内のカワイ音楽教室を紹介されレッスンを開始しました。
寺山先生、とても熱心に教えてくださるのですが、私が教えてほしいポピュラー音楽については物足りなく、1年経った頃、カワイ内で私に合う先生を紹介していただき長岡教室に移りました。
紹介していただいたのが杉田先生。たくさんたくさん教えていただきました。3年ほどレッスンを受けましたが、感染症が広がりレッスンが中断したのを機に卒業しました。
その中で杉田先生に一番初めにレッスンを受けた曲が思い出深いので紹介します。「アニー・ローリー」です。
これから
私は110歳まで元気に生きたいと思っています。あと40年あるわけですが、その生活の中には音楽を大事な支えとして置いておきたいと思っています。何よりも演奏することを何らかの形で続けていきたいと思っています。その頃また「私の音楽遍歴(続き)」を書けるかな。
コメント
音楽遍歴 これから110歳までお気の向くまま穏やかな熟年として人生のページを埋めてくださ
いますよう‼
プルシアンブルーさんも、いつまでもご自身の人生のページを埋めていかれますよう。
今年もよろしくお願いいたします。