Googleマップを見ていると道路名が表示されているが、県道などの「~線」という現代の名称の他に「~街道」といった古い名称も表示されている。昨年歩いた村松街道もGoogleマップを大いに参考にさせてもらった。
この「三国街道中通り」という名前も私はGoogleマップで初めて知った。
三国街道中通り
ネットでいろいろ検索した結果、新潟県教育委員会が編纂した「新潟県歴史の道調査報告書」の第八集として詳しい内容がまとめられていることがわかった。
見附市の中央図書館に所蔵されていることがわかり、さっそく借り、読んでみた。
それによるともともと「三国街道」という道が上州(群馬)から三国峠を越えて越後に入り、長岡から寺泊に至っていた。そして越後の北に位置する新発田藩や村上藩に至る道として利用されていたのが「三国街道(中通り)」ということらしい。「中通り」というのは正式な名称ではなく、本家の三国街道と区別するために「中通り」と付けて区別していたとのこと。
古くからの人々の往来により形成された道路なので、かなりルートの変遷があったようで、この資料中でもたくさんのルートが紹介されている。
それで、実際に歩くルートは、現在でも旧道として明確に残っている道は必ずそちらを通ることにする。しかし、途中で途切れていたりあいまいだったりする場合は明確な現在の道やGoogleマップに記載のあるルートを参考に決めた。
全体で120kmくらいある。それを8分割し、8日間に分けて歩くこととした。
長岡~見附
そこで今日(2022年5月2日)から歩き始めたわけだ。連続して歩くわけではなく、天気やスケジュールと相談しながら気が向いた時に歩き進めたいと思っている。
まずは長岡市の表町交差点から見附市の市谷(いちや)街道まで、15キロほどの距離を歩いた。
妻と長岡市内の喫茶店で朝食をとり、そのまま表町交差点で下ろしてもらった。
表町交差点~下々条
長岡駅前から伸びている大手通り。この辺に江戸時代、長岡城があった。そこが中通りの起点だ。
少し歩くと右折し東に向かう。
山本五十六記念館の前を通過。長岡の郷土の有名人というと、戊辰戦争時の河合継之助と太平洋戦争時の山本五十六だろう。ところが河合継之助は明治政府軍と戦い長岡を戦火に包んだ。また山本五十六はアメリカ軍の空襲により標的にされた原因だという人が多い。
左折し、旧国道17号線を進む。スズラン通りという愛称が付いており、雁木の面影がたくさん残っている通りだ。
川西屋。団子屋さんだが、昔ながらのスティックアイスでも有名だ。
国道8号と交差する。
さらに進むと新町(あらまち)交差点だ。江戸時代にこの辺に広がっていたのが新町村。ここを右折する。
少し進むとJR信越線の踏切がある。ここを直進すると東山丘陵の浦瀬に至り、当初の中通りはそのルートだったということだ。その後の新しいルートはここを左折し、線路沿いに北上する。
この北長岡駅周辺は工場が集まっている。この通りにも鉄工所やらマテリアルやらの工場が左右に連なる。
栖吉川を渡る。
すると栖吉川と並行して流れてきた流れが分岐して、平行に北上する。この流れは福島江用水路だ。
福島江は周囲よりも高い位置に水面がある印象だ。なだらに右に左にカーブしながら街道はそれに沿って進んでいく。川辺には周辺の住民が植えたと思われる花、またずっと続く桜並木が続く。
下々条~新組
下々条に到達。水田が広がってい来る。連休初日なので田植えの作業が進んでいるのが見える。耕し、水を張り、そして苗を植え付ける流れとなる。
街道沿線には地蔵様や神社、お寺が多い。ここは石動(いするぎ)神社。白山信仰の神社だと思う。
国道8号線長岡バイパスを横断するが、地下道が整備されている。この周辺の集落の通学路になっているので必要なのだろう。
かなり整備されていてきれいにだ。壁には小学生の絵などが飾られている。
地下道を出たところにあるセブンイレブンでトイレ休憩。
そしてJR信越線の踏切を渡り、新組集落に入る。
新組~市谷街道
猿橋を渡ると旧道が現れる。ここから現在の県道とは別の旧道をたどって見付市街地に入っていく。
新組小学校、右側には新組保育園と老人施設などが集まっている。
福島集落で広域農道と交差。この農道は見附と長岡を結ぶ幹線になってきている。
四ツ屋集落で見かけた広告看板。なぜにこんなところに東北サファリパークと那須サファリパークの看板が・・・
古い集落ではお地蔵さんをよく見る。
また、古い集落では各戸の庭に木や花が丁寧に植えられていて目を楽しませてくれる。
四ツ屋集落から漆山集落に入る時に現代の県道を横断する。
漆山集落で刈谷田川にかかる開運橋からの道路をくぐる。
下新町(しもあらまち)に入る。ここも古くからの集落で、神社、地蔵、庚申塚などが点在している。
刈谷田川の土手に上がる。
そこで今年架け替えられて開通したばかりの瑞祥橋を渡る。以前は歩道がなく、歩いて渡るのは命がけだったが、広々した歩道が両側についてきれいになった。
市谷(いちや)街道に入る。このお地蔵さまは今でも周辺住民に大切にされている。
15kmを3時間ちょうどで歩いた。歩数計は18,500歩を示していた。
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